人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「絵と人と、運命の出会い」について。
* * *
今年の文化の日は晴れであった。一年で一番晴れの確率が高いといわれる日、私は、長野県の上田市内にある無言館にいた。軽井沢の山荘に毎年行きながら、無言館には足を運んでいなかった。
二○一八年に閉館になり、のちに残照館として再オープンした「信濃デッサン館」には、二十年以上前に館主の窪島誠一郎さんからの依頼で話をしにうかがったことがあった。村山槐多(むらやまかいた)をはじめ、関根正二、松本竣介など早世した異才の画家たちの絵には心に響くものがあった。
戦没画学生の作品を集めた無言館の名が高くなるにつれて、私の愛する「信濃デッサン館」のことが気になり、生来の天邪鬼(あまのじゃく)のせいで、併設の無言館には足を運んでいなかった。
ぜひ見に行きたいという小諸に住む友人の言葉に、そうだ今がチャンスと彼の車に乗って向かうことになった。
そこに展示されているのは、若くして戦争に行き命を落とすことになった悲劇の背景を持つ絵だけに、足を踏み入れる時には覚悟がいった。しかし、夢中で釘付けになった。一枚一枚の絵が素晴らしいのだ。
悲劇的背景をとりのぞいても、どれもいい絵であり、描いた人の思いがいきいきと伝わってくる。決して悲劇的なものではなく、生きることの喜びとエネルギーが伝わってくる。明るい力に満ちた作品だった。
暗さを予想した方が間違いだった。画学生たちの描く喜びが聞こえてくる。彼らが戦争で死んでいなかったら、どんな絵を描いていただろう。
なかでも一人、私の知人の息子の絵に釘付けになった。曽宮俊一──山の画家として名高く、晩年失明してから手掛けた書もすばらしい曽宮一念の一人息子である。生きていたら一念を超える画家になったといわれ、一念は息子の戦死後、百一歳で亡くなるまでたった一度しか息子の話をしなかったとの逸話に、心中が推しはかられる。