人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「鎌原村が語ること」について。
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テレビで見る浅間山は、すでに真っ白である。約一カ月前、軽井沢から鬼押出しを経由して、群馬県側の嬬恋村まで行った時は、青一色の秋晴れの空の下、すすきが揺れていた。
日本旅行作家協会という旅好きの集まりがある。斎藤茂太、兼高かおる、そして三代目の会長を私がつとめている。年に一回、特別例会として会員の希望者で旅をするが、この二年はコロナのせいで中止になっていた。
まずは近場からはじめようということで、嬬恋村へ出かけ、浅間山の天明の大噴火のあとを辿ることにした。旅先の市町村とのシンポジウムもあるので、テーマを持っていくことが大切だ。
旧鎌原村の悲劇は御存じの方も多かろう。天明三(一七八三)年に起きた浅間山の大噴火で、泥流を巻きこみながら火砕流が鎌原になだれ込み、村のほぼ全体が埋まった。
四百七十七人が死亡。九十三人が生き残った。高台の観音堂に逃げこんだ人だけ助かったのだが、中にはあと一歩で逃げ切れず遭難した、年輩女性を背負った若い女性の遺体もあった。
五十段あったという階段は、十五段だけを残して今も土に埋もれたままである。
私たちはここで手を合わせ、当時を思いやった。村の大半が埋まり、今の今までさりげなく生活していた人々は生活を奪われ、日本のポンペイとも呼ばれるようになった。
「やんば天明泥流ミュージアム」をはじめ記念館も建てられ、泥流の押しよせるさま、人々の平和な暮らしが奪われる様子が再現されている。
うかつにも私は噴火は一晩のものと思っていたが、五月頃から八月まで三カ月も続いたという。その間の人々の恐怖や、日々近づいてくる死の中での暮らしはどんなものだったろう。
ミュージアムには、その後発掘された出土品が並んでいたが、私の目をひいたのが小さな猫の骨であった。そういえば確かに再現画像の中には猫がいた。その完ぺきに近い猫の骨は、かつてあった平和な暮らしを物語っていた。