作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、真面目な人が損をしがちな社会で起きたある出来事について。
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友人の話だ。雨の降る朝、いつもなら会社まで自転車で向かう道を、タクシーに乗ることにした。マンション前の交差点でタクシーを待っていると、ちょうど横断歩道の信号が青になり、対面からスーツ姿の男性がこちら側に渡ってきた。なんとなくイヤーな予感がしたが、案の定、その男性は、すーっと彼女の背後を回り、当然といった調子で彼女の右側に立ったのだった。
一瞬のことにあっけに取られながらも彼女は男の横顔を見つめた。30代半ばくらいのフツーの顔をしたフツーのサラリーマンは、彼女の視線も十分感じているはずだが、全く気がつかないかのように彼女に背を向けると、ちょうどやってきたタクシーに手を上げた。「私が先に待っていたんですけど」と言うべきかとも思ったし、または彼がしたように男の背後から回り込み右側に立つこともできただろうが、あまりに一瞬の出来事で「あ~」という思いのまま、彼女はその場に立ち尽くした。
すると、であった。向かってきたタクシーは男性の前を通り過ぎ、彼女の前に静かに止まった。さらに、スーッと開いた今どきのタクシーのドアの中から男性運転手が身を乗り出すように彼女に、「お待たせしました、どうぞ!」と声をかけてきたのだった。え? え? と戸惑いながらも言われるままに乗り込み行き先を告げ、車が走り出ししばらくすると、タクシー運転手が「見えてたんです」と、話しかけてきたという。
「お客さまが先にタクシーを待っていたのが、見えていたんです。信号を渡ってきた男性が、あえてあなたの手前に立つのも見えました。お客さまが、ただそれを見ていただけだったので……」
その一言で、彼女は思わず涙ぐんでしまったという。涙の理由は自分にもよく分からないが、見知らぬ男に当然のように存在を無視されたことの痛手はじわじわと心にきていたのかもしれない。それから運転手は「ご出勤ですか?」と尋ねてきて、なんとなく世間話になり、50代半ば頃の物腰の柔らかなその運転手さんも自分の話をはじめたという。