広島市内にある市立基町高校の生徒たちは2007年から被爆者と一緒に原爆の絵を描き続けている。体験の詳細を聞き出し、必死になって被爆者の想いに近づき描いた絵は15年間で合計182点になった。AERA2022年8月8日号の記事を紹介する。
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広島の原爆ドームから北へ約1キロメートルの所にある広島市立基町高等学校。県内有数の進学校でもある同校では、個性的な平和教育を展開している。
■今回は11点の絵が完成
15年前から被爆者と生徒が組んで原爆の絵を描く「『次世代と描く原爆の絵』プロジェクト」だ。被爆者の高齢化が進む中、被爆体験の継承を実践的に行う取り組みとして注目され、東京・銀座などのギャラリーでもこれまでに3回、絵の展覧会が開かれた。
今年、7月1日。同校の日本画教室で21年度「原爆の絵制作完成披露会」が開かれた。完成した絵は11点。6人の被爆者から11人の高校生が体験を聞き、制作した。披露会では、被爆者(被爆体験証言者)が、絵に描かれたシーンを説明、生徒はどのように苦心し、どこに力点を置いて描いたかなどを説明した。
その中の一点、「お母ちゃんを探して!」。絵のほぼ中心にもんぺをはいた女学生が立ち、足元には、つぶらな瞳の幼い女の子が両足を投げだすようにして座っていた。足をけがしているのだ。彼女の手は女学生のもんペのスソをつかんでいる。女学生の横には、血を流し、呆然(ぼうぜん)と壁にもたれかかる被爆者の姿。
絵に描かれた女学生は現在広島市に住む92歳の切明千枝子さん。1945年8月6日、爆心から南東約1.9キロメートルの屋外で被爆。偶然建物の陰にいたため、大きなけがややけどは負わなかった。当時、広島県立広島第二高等女学校4年生。15歳だった。大やけどを負った叔父(母の弟)を探しに宇品の病院へ。そこで女の子に出会った。
「その子が『お母ちゃん探してきて、探してきて』と離さないんですよ。でも私は叔父を探さないといけないので、ついウソをついたんです。お母ちゃんが見つかったら、ここにいると言ってあげるからね、と。いまでも顔が目に浮かぶんです。せめてその子の名前を聞いておけばよかった……死んでしまったかもしれませんね」
切明さんは声を震わせた。
描いたのは同校普通科創造表現コース2年生の福本悠那(はるな)さん。原爆の絵を描くのは初めてだ。
「横たわっている人の脱力した感じや女子学生と女の子の表情をどう表現するか難しかった」