1956年に石原慎太郎氏は 、「太陽の季節」で文壇デビューをし、芥川賞
を受賞。「新しき時代の旗手」(杉浦明平氏)としてデビュー、社会現象を引き起こした
1956年に石原慎太郎氏は 、「太陽の季節」で文壇デビューをし、芥川賞 を受賞。「新しき時代の旗手」(杉浦明平氏)としてデビュー、社会現象を引き起こした

 石原氏は、白洲次郎の流暢なイギリス英語とべらんめえ調の台詞を見事に再現しながら語った。日本のウィスキーをにべもなく切って捨てる白洲次郎と懸命に弁護する小林秀雄のやり取りを、愉快そうに話していたという。

「慎太郎さんは、ハンサムで度胸を持ち合わせ、イギリス英語を流暢に話す、白洲次郎さんにあこがれていたような口調でした」(多賀さん)

 石原氏は、歌がうまかったという。多賀さんがこう振り返る。

「都庁職員は『カラオケで歌を披露する慎太郎さんの歌は、裕次郎さんよりうまい』とほめていました。音域や音感が豊かなためか、英語の発音も良く、また登場人物の声色を上手く再現する。石原都知事の話しは、聞き手がまるでその場にいるような臨場感にあふれていました」

 多賀さんは、石原都知事のもとで3年の間、儀典長として務めた。

 強烈な人物ではあったが、石原都知事の話に魅了されることも多かった。

 それは、こんな意外な側面もあったからかもしれない。

 2008年に北京五輪の視察に同行した。

 その際、石原都知事は、

「自分は、中国の公安、特務機関に毒を盛られるかもしれない」

 とひどく心配していたという。多賀さんは、たまたま持っていた日本製の紙パックのお茶を「これは安心ですよ」と、スタンドに入っていく典子夫人に渡した。

「豪放磊落な印象もあるが一方で、繊細で傷つきやすい。そして『臆病』だと感じる部分もありました。そうした素顔も、石原慎太郎という人物の魅力なのでしょうね」

(AERAdot.編集部 永井貴子)

※文中の肩書などは当時。

■多賀敏行(たが・としゆき)/ 1950年生まれ。中京大学客員教授。外務省に入省後、国連日本政府代表部の一等書記官などを経て93年から平成の天皇陛下の侍従を務める。駐チュニジア大使、駐ラトビア大使を務め、2015年に退官。著書『外交官の「うな重方式」英語勉強方法』(文春新書)がある。

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