しかし、そんな操作は許されるのだろうか。
「そこが、まさにこの作品で伝えたかった核心です。インターネットと同じく、バイオテクノロジーは人間の能力を革命的に拡張すると同時に、とても危険なものになりました。技術革新は、そのリテラシーを問うフェーズに入っています。DNAプリントが手軽に入手できる時代に、私たちはいかに生命に向き合うべきか。そこに哲学的な問いを投げかけたいのです」
福原が手がけるバイオアートは、バイオロジー(生物学)とテクノロジー(技術)の進化とともに生まれたアートの先端ジャンルである。20世紀の終わりにクローン羊が世界に衝撃を与えて以来、ヒトゲノムの解読、iPS細胞や人工細胞の誕生など、SFドラマの中にあった空想譚(たん)は急速に現実化し、科学史を上書きしてきた。
バイオロジーの発達はインターネットとともにあり、テクノロジー、サイエンス、アートの先端にいる人たちの間では、「バイオロジーは21世紀のインターネット」という言説が説得力をもって浸透している。
福原自身、ドットコムバブルが盛り上がった2000年前後は、ロンドンでコンピューターに紐づいたアートを専攻する美学生だった。思索と批評を求められる教育の中で、技術革新に伴う問題に着目し、DNAについて調べたら、塩基記号ATCGの組み合わせが、コンピュテーション(演算)そのものだとひらめいた。
「コンピューターを生命に近づける。そのことで社会を批評できるな、と」
原点となる作品は18年前、04年にトレメルらとともに発表した「Biopresence(バイオプレゼンス)」だ。
ビジュアルは、公園で1本の樹木に抱きつくジーンズ姿の女性の写真。髪に隠れて表情は見えないが、全身から詠嘆、愛着、追慕、鎮魂といった複雑なメッセージが伝わってくる。
実はこの木は墓標だ。といっても、樹木葬のそれではない。木には故人の遺伝子が埋め込まれている。それによって、後世の人が何百年にもわたって故人をしのぶことができるという「生命的なもの」を宿した「お墓的なもの」なのである。
木の遺伝子にヒトのそれを埋め込むことが可能なのか。福原にしても当初は半信半疑だったが、専門家に聞いたら、あっさりと「できる」ことが分かった。作品発表の前年は、ヒトゲノムの解読が完了した記念すべきDNA元年であった。
初音ミクの心筋細胞と同じく、この作品にも「生命を宿す墓」というねじれがあるが、それ以前に、ヒト×樹木の遺伝子という発想自体が、生命に対する禁忌意識を揺さぶる。メディアは倫理性を問題視し、展示会場には「けしからん」と、怒鳴り込んでくる男性がいた一方、「これで死が怖くなくなるわ」と、わざわざ話しかけてきた高齢の女性もいた。
(文・清野由美)
※記事の続きはAERA 2022年2月14日号でご覧いただけます。