ウクライナの首都キーウ(キエフ)周辺から撤退したロシア軍は東部や南東部に攻勢をかけ、戦いは新たな局面を迎えている。元ウクライナ特命全権大使の角茂樹・玉川大学客員教授に今後の展望などを聞いた。
【写真】「ロシアのために」の頭文字とされる「Z」が描かれたモスクワのビル
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――ウクライナでは2014年2月、親ロシア政権が倒されるマイダン革命が起こり、その直後にロシアがクリミアに侵攻しました。さらに親ロシア派勢力がウクライナ東部を支配し、今日に続きます。角さんが着任したのは緊迫した状況が続く同年9月でした。
(ロシア軍のクリミアとドンバスへの侵攻に)ロシア系の住民たちが、大きなショックを受けている姿を目の当たりにしました。1991年のソ連崩壊でウクライナが独立してからも、日常的にロシア語を話し、ロシア語で教育を受け、ロシア語のテレビ番組を見て暮らしてきた人たちです。
モスクワの総主教庁に属するウクライナの正教会の信徒たちも同様です。多くのロシア系の人たちが反ロシアになった転換点でした。ロシアにとっては大失敗だったと思います。
――これまでのウクライナの歴史はどうなっていたのでしょうか。
もともとウクライナには三つの価値観、勢力が存在していました。国土の真ん中にウクライナ語を話す人々が暮らし、東側はロシアに親しみが深く、西側はポーランドなど西側諸国寄りでした。
歴史を振り返ると、最初に発展したのは中央部と西側です。現在、避難民が多く集まっているリビウには中世の美しい街並みが広がり、中心部が世界遺産になっています。キーウにも、壮大な寺院など歴史的にすばらしい建造物がたくさんあります。
一方の東側が発展してきたのは、19世紀に入ってから。石炭が発見されたからでした。そしてロシア側と結びつきながら、巨大な工業地帯として発展してきました。比較的新しい経済圏です。
ウクライナ語圏を真ん中にして東側と西側の3者がせめぎ合ってきましたが、クリミア侵攻後に東側が勢力を失いました。ウクライナ政府は欧州連合(EU)との経済連携を進め、対ロ貿易は14年に全体の25%あったのが、19年には7%まで落ち込みました。その変化は政治にも反映され、19年の大統領選では親ロか親西欧かは争点にならず、ゼレンスキー氏が選ばれました。
私は19年1月にウクライナを離れましたが、ここ数年でウクライナは西欧に属する国であるというアイデンティティーがようやくできてきたと感じていました。にもかかわらず、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナはロシアと一体化すべきだとまだ信じ、攻撃を続けています。