68年11月、ベトナムに出撃する戦略爆撃機B52が離陸に失敗し、嘉手納基地内に墜落。搭載していた爆弾が爆発し炎上した。近隣の住宅や学校など365棟が、爆風によって窓ガラスが割れるなどの被害を受けた。その後の日本政府や琉球政府の対応によって、仲宗根氏は復帰運動への疑問を強めていく。

「復帰協や教職員会などが中心となって、『いのちを守る県民共闘』を結成し、B52の撤去を要求して翌69年2月4日にゼネストを決行することを決めていました。そこへ日本政府が『日米復帰交渉に支障が生じる』と屋良さんに圧力をかけてきた。屋良さんは木村俊夫官房副長官と会談し、B52は6月ごろまでに撤去される感触を得たとして、ゼネストの回避を要請しました。結局、自民党政府に丸め込まれ、利用されてしまったのです。復帰運動を担ってきた、元コザ市長の大山朝常さんは後に『ヤマトは帰るべき祖国ではなかった』と著書に書いています」

『沖縄/暴力論』(共編著、未來社)などの著書がある批評家の仲里効氏が重視するのは、52年のサンフランシスコ講和条約の発効だ。日本が主権を回復する一方、沖縄は米国の排他的な占領を日本が追認する形で「例外状態」に置かれていった。

「沖縄は日本国憲法が適用されない“憲法不在の地”であったわけです。復帰運動では憲法のもとに帰るという主張もありましたが、そもそも憲法の成立過程から沖縄は切り離され、米軍の占領体制と密接に関わっていることを認識しなければなりません」

 仲里氏は復帰によって、沖縄は米国の単独支配から「日米の共同管理体制」に置かれたと指摘する。

「沖縄にとって、復帰後に戦後初めて自衛隊が進駐してくる意味は大きかった。現在、米軍と自衛隊は一体化する形で、宮古、石垣、与那国などにミサイル基地や沿岸監視隊を配備するなど琉球弧の軍事要塞化を進めています。再び、沖縄が戦場になりかねない状況です」

 復帰の日となった72年5月15日、沖縄は雨に見舞われた。那覇市の与儀公園ではおよそ1万人が集まり、「沖縄処分抗議佐藤内閣打倒 五・一五県民総決起大会」が開かれた。国際通りに掲げられた日の丸は濡れそぼり、翻ることはなかった。(本誌・亀井洋志)

週刊朝日  2022年5月20日号

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「沖縄は日本国憲法が適用されない“憲法不在の地”だった」