04年8月には宜野湾市の沖縄国際大学の構内に米軍ヘリが墜落したが、同じ事態がいつ起きてもおかしくない状況だ。政府は、子どもたちを守るための保育園の切実な声を政治利用したのか。
神谷氏は「復帰」について、こう語る。
「祝える状況ではありません。当時、基地被害が絶えない中で平和憲法を掲げる日本に『復帰』する選択が現実的だと考えたのでしょう。私は日本国憲法にすべて賛成ではありませんが、9条は世界に誇るべきものです。そのもとで言葉を発信し続けることは大切だと思っています」
■「まきてぃならん、たっくるせ!」コザ暴動で爆発した「群衆の怒り」
「ありったけの地獄を集めた」と形容された地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄は、戦後も苛酷な米軍統治下に置かれた。米軍人・軍属が起こす事件・事故が頻発し、悩まされ続けた。
1959年6月、石川市(現・うるま市)の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落。児童ら18人が死亡、200人以上が重軽傷を負う大惨事となった。
63年2月には、那覇市の軍道1号線(現・国道58号)で中学1年の少年が横断歩道を渡っているところを、信号を無視した米軍トラックがはねて即死させた。70年9月には、糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近を54歳女性が歩いていたところ、猛スピードで歩道に乗り上げた米兵の車にはねられて即死。米兵は飲酒していた。両事件とも米軍の軍法会議にかけられたが、米兵に無罪判決が言い渡されている。当時は、琉球政府に捜査権や裁判権はなく、米兵が起こす事件や事故は、MP(米憲兵)によって処理され、軍法会議でも米兵に有利な判決が下されていた。
糸満の事件の無罪判決から9日後の12月20日未明、「コザ暴動」が発生する。基地の街・コザ市(現・沖縄市)で数千人にまで膨らんだ群衆が、80台以上の米軍車両や嘉手納基地(嘉手納町など)の施設を焼き打ちにした事件だ。元琉球新報社長の高嶺朝一氏は当時、1年目の記者として現場に駆け付け取材した。
「米軍統治に対する人々の怒りと不満が高まっていました。同時に、1年半後に迫る復帰への不安もあったと思います。また、タクシーが少しでも違反すると、MPが目ざとく見つけて罰金を科していた。運転手たちの間では、取り締まり業務の点数稼ぎをしているとの噂も流れており、MPの事故調査現場をタクシーが取り囲むなど、小競り合いが頻繁に起きていた。米兵相手のAサイン(米軍公認の営業許可証)バーのマネジャーやボーイたちも、日ごろから米兵が店でケンカなどトラブルを起こすので、鬱憤がたまっていました」
発端は軽微な交通事故だった。胡屋十字路近くの道路を渡ろうとした男性を米兵の乗用車がはねた。男性は軽傷だったが、現場に駆けつけたMPの事故処理に不信感を持った人々が集まってきた。
「また米兵を逃がすのか」
通行人やタクシー運転手らがMPに抗議するさなか、誰かが「糸満の事件を知っているか!」と叫んだことで、人々の怒りに火がついたとされる。嘉手納基地へと続くゲート通りやセンター通りに軒を連ねるAサインバーのマネジャーやボーイらも加わり、瞬く間に群衆は数千人に膨れ上がった。
動員されたMPが威嚇発砲したことで群衆の怒りが爆発。MPカー2台にガソリンをかけ、炎上させた。当時、米軍人・軍属の乗用車は「KEYSTONE OF THE PACIFIC(太平洋の要石)」と書かれた黄色いナンバープレートを付けていた。人々は路上や駐車場に止めてある米軍車両を道路中央に押し出し、ひっくり返して次々と火を放った。火柱が上がり、タイヤが燃えて破裂する音が響く。米兵たちは群衆に追いかけられ、袋だたきに遭った。
「まきてぃならん。たっくるせ!」
負けてなるものか。たたきのめせ。カービン銃を構えるMPたちに、石やビール瓶、コカ・コーラの瓶が雨のように投げつけられた。コザ署の警察官たちも出動したが、群衆を鎮めることはできず事態を見届けるしかなかった。高嶺氏がこう語る。
「コザ署の署長は市民側の怒りの感情もよくわかるという思いと同時に、深夜で動員がかけられずきちんと職務が遂行できなかったことをずっと悔やんでいました」
やがて、群衆は嘉手納基地の第2ゲートを突破。軍の厚生施設USОビルや米人スクールを焼き打ちにした。
沖縄統治の最高責任者である高等弁務官ランパート中将は、ベトナム戦争でも使われたCSガス(催涙ガスの一種)の使用を許可した。
「私は現場を取材しながら、映画の中を歩いているような気がしていました。ナンバー2のヘイズ少将は群衆が米人住宅区域に侵入したら実弾を発砲する計画を立てていました。暴動時、ヘイズ氏はヘリでコザ市上空を飛んでいます。彼が退役した後、私は米国でインタビューしていますが、『上空から見ると、ところどころ炎が燃えており、爆撃を受けた跡のようだった。まさか沖縄でこんな出来事が起きるとは思わなかった』と語っています」(高嶺氏)
6時間余り続いた暴動の逮捕者は21人を数え、住民や米兵ら負傷者88人を出したが、これほど大規模な暴動だったにもかかわらず、死亡者は一人も出なかった。近隣店舗ヘの略奪行為も皆無だった。コザ暴動は、人間の尊厳を踏みにじられ続けてきたことへの抗議だったのだろう。