「いまは、コザ暴動の時よりも県民の閉塞感は強まっています。辺野古新基地建設に反対の意思表示を続けてきたように、これからも集会やデモ、選挙などで示し続け、日本、米国の人々の覚醒を待つしかありません」(同)
暴動の舞台となった沖縄市のゲート通りは現在、英字表記の看板は目立つものの、Aサインは復帰直前に廃止され、かつてのGIタウンの面影はほとんどなくなっている。
■「沖縄は憲法から切り離されていた」 「カラ手形」繰り返す日本に募る不信
沖縄はいまなお、日本における米軍専用施設面積の約70%が集中し、米兵による事件・事故が後を絶たない。日米地位協定によって、米兵による犯罪は被疑者が米軍の手中にある場合、起訴前は米側が身柄を確保することになっている。このため、事件や事故を起こした米兵が基地に逃げ込んで、証拠を隠滅したり、そのまま本国に帰国したりしてしまうケースがたびたび起きてきた。被害者は泣き寝入りを余儀なくされてきたが、1995年の少女暴行事件以降、殺人や強姦など凶悪犯罪に限り、起訴前の引き渡しができるようになった。だが、それも米側が「好意的考慮」を払った場合という条件付きだ。
米占領下の沖縄が希求したのは、平和憲法、基本的人権を保障する日本国憲法の下に入ることにほかならなかった。
60年、沖縄教職員会会長の屋良朝苗氏が中心となって、沖縄県祖国復帰協議会が結成された。屋良氏は68年、琉球政府初の公選主席に就任。基地の「無条件全面返還」をスローガンに掲げ、復帰運動はスタートした。
69年11月、佐藤栄作首相とニクソン大統領は首脳会談後に日米共同声明を発表し、72年に沖縄の「核抜き、本土並み」返還に合意した。しかし、それはカラ手形だった。返還後も沖縄の米軍基地は居座り、有事に際し沖縄へ核兵器を持ち込む「核密約」が交わされた。反対運動が巻き起こるなか、71年11月、沖縄返還協定は衆議院特別委員会で強行採決された。
元裁判官で、近著に『琉球共和国憲法の喚起力』(共著、未來社)がある仲宗根勇氏が指摘する。
「琉球にとって“祖国”とは、1879年の琉球処分まで存在した琉球国しかないのです。72年の『日本復帰』とは植民地支配の『再併合』でしかありません。ですから、私は『核抜き、本土並み』というのはウソだと見抜いていました。68年ごろから、沖縄タイムスの新川明さん、川満信一さんらとともに『反復帰』の思想を唱えました」