「ねえ、そんなに脅えてどうしたの?」と心配そうに尋ねてきたのは同じカフェテリアで働く60代の黒人女性だった。
人生の酸いも甘いも味わってきたようなこの女性になら、秘密を打ち明けられると思い、勇気を出して妊娠したことを告白した。
すると、女性は自分の家においでと彼女を誘った。
「この女性がバスルームにお湯を溜めて、粉末を湯の中に振りまいたのを覚えている」
粉末が溶けた湯の色は、鮮やかな辛子色に変わった。
「マスタード・バスよ」と女性が言った。
マニスカルコさんはそれが何を意味するのか全くわからず、その女性の家から、仲良しだった19歳の義理姉に電話をかけた。
「それ、マスタード・バスだよ。中絶するための方法」と義理姉は電話口で言った。その頃の米国では、自分で堕胎するために、今では信じられないような方法が様々あった。女性たちはそうやって望まない妊娠から身を守るしかなかった。
マニスカルコさんは、服を脱いで浴槽に浸かったのを覚えている。
「お湯に浸かって30分ぐらいすると生理痛のような鈍痛が始まった。我慢できないほどの痛みではなかった。その後2時間ぐらい、ひたすらお湯に浸かり続けた」
非合法時代に選んだ「中絶」
家に帰ると、心配した義理姉が待っていた。ふたりで相談し、母親には何も言わなかった。
数週間後、義理姉が「念のために診てもらったほうがいい」と郊外の無料女性クリニックを探して、マニスカルコさんを連れて行った。
「子宮内にまだ残留していたものを、そこで取り去る処置をしてもらった」と彼女は言う。
街の総合病院のカフェテリアでアルバイトをしていたが、病院の医師や看護師に妊娠や中絶のことを打ち明けることなど、考えたこともなかった。
周囲の誰にも決して知られるわけにはいかなかった。
それが「非合法」時代に中絶を選んだ少女にできるただひとつの身の守り方だった。
その6年後の1973年、米国の最高裁は「中絶は合憲である」という歴史的な「ロー対ウェイド判決」を下す。