田原:聴きほれちゃったんだね。
延江:そのときカメラを回していて、どんな気持ちだったんですか。
田原:いつゲバルトになるか、いつ始まるかと。
延江:逃げ道とか用意したんですか。
田原:何も用意してない。だって捕まってもいいと思ってるんだもん。
延江:すごい人ですね。山下さんに聞いたら、「田原さんはもっと火炎瓶や石が飛んでくることを期待していたんじゃないか」と笑ってました。田原さんにとってはつまらなかったのでは。
田原:いや、最後までハラハラしていた。今に警官隊が来るんじゃないかと。
延江:山下さんは何かあったら逃げればいいと思っていて、トリオとしてライブに立った中村誠一さんも、サックスを抱えて逃げればいいと思っていたようです。けれど、森山威男さんはドラムだから「どうしよう」と思いながらたたいていたって(笑)。本人たちは必死だったんでしょうね。
田原:下手したらゲバルトになる状況のなかで必死にやったのが、評判につながったんだろうね。山下は演奏後に「今までで最高におもしろかった」と言っていました。
延江:過激派ではないけれど、当時ピアノを運んだ人たちの中に作家の中上健次氏がいたと聞きました。本当ですか。
田原:はい。ヘルメットをかぶった連中ばかりで、当時は中身はわかりませんよ。後から「自分も運んだ」という話をいろいろなところで耳にして、そうだったのかという認識です。
──型破りな企画が実現したのは、所属していたテレビ局の事情も関係していたと田原さんは言う。
延江:過激な、逮捕すれすれの企画に局は何も言わなかったんですか?
田原:当時のテレビ東京は三流局で、テレビ番外地だった。大手局のようには誰も見てくれない。だから他局が作らない番組を作ろうとすれば、それは危ない番組。自分でスポンサーを見つけて作った。スポンサーがついて、視聴率がよければ、局は文句ないからね。
延江:山下さんの側も、当時はフリージャズ自体がジャズ界からは異端児扱いされていたんだそうです。で、彼ら山下トリオを支持してくれたのが、当時のロックやフォークの連中だった。実際に、中津川フォークジャンボリーに出たりね。そして、後年、坂田明さんがトリオに入って、ヨーロッパで大変な話題になるわけですが。
田原:“異端”から始まったというのは共通しているね。ただ、彼は初めて会ったときから芸術家然とした空気感をまとっていたよ。
(構成/本誌・秦正理、佐藤秀男)
※週刊朝日 2022年7月22日号より抜粋