大久保利通の生誕地近くを流れる甲突川からは桜島が望める=鹿児島市(c)朝日新聞社

 著者の山脇が土佐人を一人も挙げなかったのにはおそらく2つの理由があった。一つは土佐人として候補に挙がるとすれば、板垣退助か後藤象二郎だが、両名とも明治十七年時点で存命していたこと。二つめは山脇が自由民権派に嫌悪感を抱いていたことだろう。同書の序言に「徒に是非を口舌の間に闘はすが如き民権者の企て及ぶ所ならん哉」と否定的な言辞がある。

 また山脇が同書を明治十七年に刊行したのは偶然ではなく、前年の七月に岩倉具視が死去したことと無関係ではあるまい。山脇は岩倉の最初の伝記『岩倉具視公小伝』の編者でもあったからである。

「人事は棺を蓋うて定まる」(人の評価はその死後にはじめて決まる)というように、「三傑」や「十傑」における選定基準には、被対象者がすでに死去していることなど何らかの画期や背景があり、さらに選定者の政治的な立ち位置や価値観が反映しているといえよう。「三傑」や「十傑」にはバイアスがあることを銘記しておくべきだろう。

■戦いを勝利に導く「指導力」にすぐれた人材は誰だ

 幕末から明治の創業期にかけての4半世紀は日本史上、まれに見る政争や戦争が繰り返された時代でもあった。

 ペリー艦隊の来航以来、徳川幕府の弱腰により、その統治能力に疑問符がつけられるようになった。その意味で明治維新は新たな政治体制の創出のため、犠牲を伴う産みの苦しみになった。

 始め、水戸斉昭、島津斉彬、松平慶永などの雄藩諸侯が幕府に改革を求めて失敗した。次に尊王攘夷運動が高まると、諸藩の藩士や浪士たちが横につながる形(処士横議)で天誅も含む過激な運動形態が取られ、それは天狗党の乱や禁門の変の敗北をもって終わりを告げる。

 最後は幕府から一定の距離を置く西国雄藩を中心に、藩の国力・権力をバックにした指導者が生き残るか、新たに登場して活躍することになる。いわゆる「維新の十傑」はこれに該当する。

 そのなかでもっとも重要なのは指導力である。十傑の多くはそれを兼ね備えているが、なかでも抜きん出ていたのは、小松帯刀、木戸孝允、岩倉具視である。

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