ひ孫のなおちゃんと公園で遊ぶ松本さん
ひ孫のなおちゃんと公園で遊ぶ松本さん

あの事件は遠い過去のことかもしれないと思えたが

 あれから80年近くが過ぎた。2人はいまも絵を描きながら淡々と暮らしている。菱谷さんは日曜夜のテレビ番組「ちびまる子ちゃん」を見ることを楽しみにしている。寝る前には子どものころの話を聞かせてくれた。「学力はちびまる子ちゃんよりはいかった。丸尾君ほどではないけどな」。高橋さんはそんな茶目っ気たっぷりの老人の姿にレンズを向ける。それは平凡な生活を描いたことで逮捕されたことの暗喩でもある。

 劇的なことは何も起こらない。しかし、2人の気持ちの奥底にはいまも言いようのない息苦しいものが沈殿していた。

 高橋さんは長いあとがきにこう書いている。

<私は東京と北海道を往復し始め、できる限り長い時間を彼らと共有した。100歳を間近に控えた彼らの穏やかな表情を見ていると、もうあの事件のことは遠い過去のことなのかもしれないと思えた。冷静に、時にはおかしく事件を語れるようになっていて傷も今は癒えているのかもしれない。時間が経つにつれ、私は彼らのことを何か知った気になってそんなふうに勘違いしかけていた>

松本さんの写真アルバム。戦後に写した松本さんと菱谷さんの旅の思い出の一枚
松本さんの写真アルバム。戦後に写した松本さんと菱谷さんの旅の思い出の一枚

出獄直後に描いた「赤い帽子の自画像」の強烈な皮肉

 取材中、小さな事件が起こった(他人からすれば小さな出来事だろう。写真集の作品にも現れない)。そこで高橋さんは菱谷さんの心の内側を垣間見る。

<普段、社交的で明るく色々なことを話してくださるその奥には、とても重い、冷たく凍った土のようにいつまでも溶けない感情があるのだと知った>(あとがきから)

 松本さんにも「恐る恐る、『自分がここにくることも本当は嫌だったのではないですか』と尋ねた。すると、『そんなことはないですよ』と答えてくださった」(同)。

 写真集をめくっていくと、中ほどにタイトル『A RED HAT』の元になった絵画「赤い帽子の自画像」が現れる。菱谷さんが出獄した直後、衝動的に一気に描き上げたものだという。それを聞いたとき、言葉に詰まった。重苦しい。たぶん、高橋さんも同様な気持ちだったと思う。

 そこに透けて見えるのは「だったら、共産主義者(アカ)になってやるよ」という、半ば自暴自棄のような悔しさ、そして強烈な皮肉だ。

「軍国主義には反対も賛成もない。最初から軍国主義なんだよ」

 難しい取材を続けてこられたのは「菱谷さんも松本さんもすごくいい人」だったから。写真集はそんな彼らの日常と心象風景を綴っている。

「ぼくは北海道の祖父のような感じで2人に接していました」

 写真集の最後には生活図画事件を伝えるさまざまな資料が掲載されている。印象深かったのはこの事件の取り調べにあたった旭川検事局の書記官・板橋潤さんの証言。

「軍国主義には反対も賛成もない。最初から軍国主義なんだよ。世の中が軍国主義に染まりきっていた」

 板橋さんはその後、満州の裁判所に務め、戦後はシベリアに抑留された。帰国できたのは終戦の11年後だったという。
                  (文・アサヒカメラ 米倉昭仁)