「たまむすび」2千回のイベント当日、スタジオを出て参加者の前から生中継。赤江が姿を現すと、一斉に歓声が上がった(撮影/今村拓馬)
「たまむすび」2千回のイベント当日、スタジオを出て参加者の前から生中継。赤江が姿を現すと、一斉に歓声が上がった(撮影/今村拓馬)

 土曜日にABCで情報番組「おはよう朝日です」に出演、打ち合わせ後に東京へ。その足でテレビ朝日に行き、田原総一朗率いる「サンデープロジェクト」の打ち合わせ。翌日、本番。「他愛もない会議」から「大学の講義」。「ひらがなの議事録」から「漢字の議事録」。「笑いがとれたらオッケーなところがある」ABCと「やはり真面目で堅い」テレビ朝日のギャップに、頭がパニックになりそうだったと振り返る。が、それだけではなかった。
 
 初めて出演した「サンデープロジェクト」、自公連立政権下の公明党が話題になった。番組最後に田原から感想を求められ、「公明党さんには、おでんで言ったら辛子のような存在になってほしいですね」と答えた。田原からはほめられたが、テレビ朝日の人からダメ出しされた。
 
 あまり自分を出し過ぎないように、という指導だった。が、田原を真ん中に男女1人ずつアナウンサーがいる番組構成だったから、女性は引いていなさいという指導だと理解した。「それには社風だけでなく、文化の違いもある」と赤江。

「大阪では市民のヒエラルキーのトップがおばちゃんで、女性がもの申すことに寛大。だから関西の男の人って、おばちゃん化していくんです」

 ABCの先輩の宮根誠司などを引き合いにしながらそう語り、「その点、東京は武士の歴史だから、『女性は一歩引く』になるんだと思います」。

「スーパーモーニング」のことも赤江は、「女性視聴者がメインと言いながら、つくってるのはなんでおっさんばっかりなんだー」と思ったとは語っても、古い体質だったと息巻くようなことはない。「飲み会は全部出る。二次会も三次会も行く」という方針のもと、少しずつ自分の「体当たりキャラ」をスタッフに理解してもらった。

 大阪に戻って1年、07年3月末にABCを退社、4月からフリーアナウンサーとして「スーパーモーニング」に復帰した。と書くと、活躍の場を広げるためにフリーになったように見えるが、事情は少し違う。復帰半年前、赤江はABCに辞表を提出していた。その後、テレ朝がABCに赤江の再登板を打診、「退社」と断られ、赤江にフリーでの出演を依頼。そういう流れだった。

「仕事ばっかりしてて、いいのかなー」という気持ちで出した辞表だった。30歳を過ぎ、テレ朝に勤務する現在の夫との結婚も頭にあった。仕事を1回止めて、嫁にでもいって人生考えるか。そんなつもりだったのにフリーでの復帰を決めたことを、「本当に、行き当たりばったりで」と赤江。だがもう一つ、振り返ると自分の中に「女性はこうあるべき」といった概念がけっこうあったと思う、とも語った。この話は、少し後でする。

「スーパーモーニング」が11年に「モーニングバード!」に衣替え。その少し後、妊活も頭にあり降板を願い出たが慰留される。12年からラジオ「たまむすび」を始め、午前4時から午後5時近くまで働く生活を3年余り。15年に「モーニングバード!」が終了、以後は「たまむすび」一本に。以上、ざっくりだが、赤江の仕事史だ。

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