今村夏子『むらさきのスカートの女』。話題の今期芥川賞受賞作である。今村作品はデビュー当時から名作童話みたいな不思議な雰囲気があって「タダモノではない」感が半端じゃなかった。
さて本作は<うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる>という一文からはじまる。女はさほど若くはなく、頬にはシミ、髪はパサパサ。公園には彼女専用のベンチがあり、町で彼女を知らない人はいない。
<むらさきのスカートの女と友達になりたい。でもどうやって?>
語り手の「わたし」は求人情報誌をベンチに置いて、女を自分の職場に誘導する。仕事はホテルの客室清掃員。ようやく同僚となった女と「わたし」は同じバスで職場に通い続けるが……。
一言でいえば、ストーカーの視点で描かれた一人称小説だ。語り手は「むらさきのスカートの女」に同情を寄せている。が、「黄色いカーディガンの女」を自称する彼女自身もかなり怪しい。女の一挙手一投足を観察し、陰で世話を焼いたり気をもんだりするこの子はいったい何者なのか。これほど近くにいながら、なぜあっちは彼女の存在に気づかないのか。透明人間なのか。まさか幽霊か。
不穏な空気をふりまきながら物語は進むのだが、目の前で起こる事件に参加できない「わたし」はまるでドラマのナレーター。とはいえ彼女は病的なストーカーですからね。そばで見るのが不可能な出来事も見てきたように実況するし、むらさきの女の体験と自分の体験の境界も曖昧になっちゃうし、読者はいやでも攪乱される。
原点はでも、強烈な自己承認欲求と過剰な愛かもしれない。むらさきの女の華麗な身のこなしを見てそもそも「わたし」は憧れたのである。<黄色いカーディガンの女には真似のできない芸当だ>
むらさきの女が職場になじんで「普通の女」に変貌するのと裏腹に、徐々に「危ない女」に近づいていく「わたし」。ホラーか、はたまた恋愛小説か。ラスト近くで判明する「わたし」のダメ人間ぶりとその境遇が衝撃的だ。
※週刊朝日 2019年8月9日号