『歴史を読み解く城歩き』
朝日新書より発売中

 日本列島には三万カ所をこえる城があり、城は最も愛される文化財になっている。江戸時代にはすでに古城への関心が高まって各地で記録がまとめられていたように、城は古くから注目されてきた。だから、わが国の城好きも昨日今日にはじまったものではない。

 しかし今日ほど城の人気が高まり、人びとに広まったことはなかった。もはや城を好きになるのに年齢も性差も関係がない。城の楽しみはすべての人のものである。そして城を訪ねる楽しさは多様である。天守や櫓など現存する城郭建築に注目して楽しむ「建物派」、石垣の違いにこだわる「石垣派」、石垣すらない土づくりの城が第一と考える「戦国派」、城の姿を画像で表現するのを目指す「写真派」など、城への愛情表現はさまざまで、どの楽しみ方も尊重される。

 全国で城跡の基礎的な調査が進んだことで、都道府県を代表する中・近世の城が国の史跡に指定されてきた。しかし史跡の城になったから、すぐに史跡整備を行うわけではない。まずは地道な発掘調査が必要である。城の基本的な性格や構造・特色を把握し、何を整備して復元すべきか、それらを実行するだけの学術的根拠はよいかを、一つひとつ見極めなくてはならない。

 こうして発掘成果や古文書、絵図・地図資料からの検討を総合して、城の整備や復元の方針を定めた「保存活用計画」ができあがる。「保存活用計画」はその城の整備・活用の憲法であり、それぞれの城にふさわしい計画を立てる。たとえば石川県金沢市は、国史跡「加越国境城跡群及び道」の城内道や、案内板の配置などを現在検討中である。

 一五八四年(天正一二)に東海地方で羽柴秀吉と徳川家康が激突した小牧・長久手の戦いに連動して、北陸では秀吉に味方した前田利家と、家康に味方した佐々成政が、加賀・越中の国境の山で激戦を繰り広げた。加越を結んだいくつもの峠越えの山道を押さえて敵の侵攻を防ぐために、峠を挟んで両軍が山城を築いた。それが加越国境城跡群であった。

 戦国の戦いを物語るこの城跡群は、よく残ってはいたが草木に深く覆われて、とても気軽に見学できなかった。しかし金沢市による学術調査が進み、市民に調査成果をていねいに説明していくことで、ただの山林にしか見えなかった場所の歴史的価値が市民と共有されるようになった。そして今では地域の方々がボランティアで城跡の環境整備を実施してくださって、心地よく安心して冒険ができる、すてきな戦国の山城になっている。

 現地に立つと、自然地形を活かしつつ、知恵を尽くして堀や防御の土手・土塁などを完成させた戦う城のリアルを、五感で感じられる。ただし城には建物はひとつも残っていない。せっかく山を登って訪ねたのに、櫓も門もないのでは面白くないと考える方も多いかもしれない。

 確かに姫路城のように多くの城郭建築が現存していれば、本物がそこにあるから実際に見ることができ、城をどうつくったかの「正解」もすぐわかる。だからこそ姫路城は世界の人に愛されているのだが、別の見方をしたらどうだろう。姫路城は、本物が残っているがゆえに、ここにはどんな櫓や門があったのだろう?と想像する余地はほとんどない。天守に到着するまで続くのは、次々と示される完全な「正解」である。

 城として姫路城のように本物を見られるのは贅沢なことであるが、こうした例はまれである。それでは建物をすべて失って跡になっている城はつまらないかといえば、そうではない。ある意味、建物が残っていない城は姫路城より楽しいといえるのである。

 その楽しさとは、自分自身で現地に立って、実物の歴史資料である城の痕跡に接し、城本来の姿を想像し、頭の中で復元して歴史を読み解いていくよろこびである。城歩きを重ねれば重ねるほど知見は深まり、残された痕跡から城の姿を的確に捉えられるようになる。城歩きは一見、野山に分け入って体を動かしているだけに思われる。しかし野山を眺めて立ち止まっていても休憩しているのではなく、山中にある地面の凹凸を城の復元情報として変換し、頭をフル回転させて数百年前の城の姿を脳内によみがえらせる高度な知的活動を行なっているのである。

 さて、全国で人気になっている城を歩いて歴史を考える楽しさを、このたび『歴史を読み解く城歩き』として朝日新書として刊行させていただいた。すでに城好きという方にはもちろん、これから城に関心をもってみようという方にも読んでいただけたらと願っている。