「日本でも、感性豊かな子どもたちを育てられないか」
就職活動では新体操教室を展開する企画書を作り、小売業界に売り込んだ。複数の企業からは好感触で「大きな体育館を建てて、海外から優秀なコーチを招こう。年間5億円、10億円ぐらいなら広告費として安い」と言ってもらえた。
ジャスコ(現イオン)は違った。
「入社して一社員となり、事業として取り組みなさい。広告・宣伝費は景気に左右されるけれど、ゼロから自分で築いた事業は誰もが賛同する」
これが決め手で入社を決めた。
84年、新入社員としてスポーツ事業部に配属された。新体操教室を千葉市に開いたが、最初の入会者はわずか3人。上司に怒られたが、勧誘チラシを近隣のマンションに毎朝投函(とうかん)しつづけたら、1年後には会員が100人を超えた。今では全国30カ所以上、約7千人の生徒がイオンの店にある教室に通うまでに成長した。
新体操を日本で発展させた実績が認められ、渡辺は97年に日本体操協会の理事に就いた。
「体操ニッポン」の栄光は色あせていた。96年アトランタ、2000年シドニーの五輪2大会連続で日本のメダルはゼロ。協会の会長だった徳田虎雄が激怒し、「俺も辞めるから役員は全員、辞表を出せ」と全理事を辞めさせた。徳田から電話で呼び出され、言われた。
「君が新しい会長と役員を探して協会を立て直してくれ。4年後のアテネ五輪では、メダルを1個取ってほしい」
ジャスコ副会長を退任して間もない二木英徳を会長に迎え、組織の改革に取りかかった。今年8月に亡くなった二木にたたきこまれたのは現場第一主義だ。つねに問われたのは「選手はどう思うのかな」。メダルが狙える男子団体に強化を集中させ、海外遠征では選手をビジネスクラス、役員をエコノミーとした。アテネ五輪では男子団体で28年ぶりの金メダルに結実した。
今も現場第一主義の教えは大切にする。長年、渡辺を支える日本体操協会事務局長の守永直人(44)は昨年、北九州市で開いた世界選手権のときに、渡辺に叱責されたという。「海外から来る選手団が泊まるホテルが20近くあったんですけど、事前に視察しなかったんです。手間を惜しむな、と厳しく言われました」
(文中敬称略)
(文・稲垣康介)
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