高校時代に体操と出会い、FIG会長まで上り詰める軌跡は、聞けば聞くほど、運命のいたずらの連続に思える。
福岡県立戸畑高校の体操部は、かつて高校総体で全国3位になった実績があり、専用の体育館もあったが、入学当時の部員はゼロ。「悪ガキ」の級友4人とその体育館を遊び場にしていた。それを体操部顧問に見つかる。「体操をやりたかったんです」と苦しまぎれの弁明をしたら、全員で入部させられた。顧問の中村輝美は戦争で中止になった40年東京五輪の「幻の日本代表」。体操なんて興味もなかったが、3年の春の県大会で団体3位になるまで上達した。
九州大医学部を目指して勉強もしていると、東海大体育学部の推薦入試を高校から勧められた。
ハンバーガーチェーンのマクドナルドが東京に上陸して話題になっていた。友人と盛り上がり、勢いで上京して受験した。翌日、合格の知らせが届く。もう断れない。進学先が決まった。
大学に入って間もなく、母にがんが見つかる。学費を払うのが苦しくなり、退学するしかないかと考え始めたとき、ある案内が大学の掲示板で目に入った。交換留学生の募集で、現地での学費は不要で奨学金まで出る厚遇だった。ブルガリアの国立体育大に応募し、合格した。
■現場第一主義を実践し アテネで男子団体金メダル
バイトで旅費をひねりだしたが、航空券を買う余裕はなかった。船でソ連のナホトカに向かい、鉄道でモスクワを経由してブルガリアのソフィアにたどり着いた。人生初の海外旅行だった。
ソフィアでは留学生の寮に住み、多くの国の学生らと友情を育んだ。
「自分が人種や宗教、言語の違いに関係なく、どこの国の人ともすぐに打ち解けられるのは、このときの体験が大きい」
現地では語学習得に役立つと思い、体操のジュニア世代の指導をした。好成績を収めさせると、新体操の練習も見に来るようブルガリア代表のヘッドコーチから誘われた。新体操の技術に加え、本を読ませ、芸術から哲学までの教養を深めさせていた。そうすることで選手は内面からわき出る感情表現で見る人の心をとらえられる。その指導方針に魅せられた。
日本に帰国して卒業が近づいても、新体操が頭から離れない。