都電背景右側のマンション群の裏手に「古川」が流れており、古川を挟んで手前側が旧麻布区新広尾町、向かい側が旧芝区三田小山町で、左奥の街並みが麻布新網町だった。戦後、両区が統合されて港区になり、現在の町名は手前側全域が麻布十番、古川の向かい側が三田に改名されている。
■「橋」尽くしの34系統
麻布十番・一ノ橋界隈に路面電車が走ったのは東京鉄道会社による古川線(天現寺橋~金杉橋)で、1908年に開業している。一ノ橋から赤羽橋まで延伸されたのは翌1909年で、市営になった1914年に金杉橋(かなすぎばし)まで全線が開通した。
この34系統は渋谷駅前を発して渋谷橋~天現寺橋~古川橋~赤羽橋~金杉橋に至る6372mの路線。渋谷駅前から終点の金杉橋まで、終始古川の流れに沿って走ることから「橋」を冠した停留所名は12を数える。圧巻は四ノ橋(しのはし)から金杉橋で、9連続で「橋」と付く停留所が続くことになる。
玉川電気鉄道が1924年に渋谷駅前から天現寺橋約2500mを全通させた天現寺線が34系統のルーツだ。1938年、渋谷駅改築で玉川線と分断された天現寺線の経営を東京市に委託(1948年、東京都が玉川電鉄→東京横浜電鉄の後身に当たる東京急行電鉄から正式譲渡され、都電・天現寺橋線となる)。委託期間中は天現寺線と接続する古川線を走る35系統渋谷駅前~金杉橋として運行された。戦後34系統に改番され、1969年10月25日に廃止されるまで麻布十番界隈を走り続けた。
余談になるが、古川線が廃止される前年の1968年5月、一ノ橋停留所が「麻布十番」に改称された。これにより、圧巻だった9停留所連続の橋尽くしが潰えてしまった。
都電廃止後、麻布十番界隈は往時の都電輸送をカバーするように、都道415号線やこれと交わる都道319号線に路線バスが頻繁に走っていたが、前述の地下鉄開通に至る2000年までは、鉄道輸送網から見放された“陸の孤島”と呼ばれる状況が長く続くことになる。
ただ、その頃から著名人などがお忍びで訪れるような飲食店が軒を連ねたのは、ある意味、鉄道網に邪魔されないオトナの文化が築き上げられた麻布十番のなせる魅力なのだろう。
■撮影:1965年9月1日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。