2020年のオリンピックに向けて、東京は変化を続けている。同じく、前回の1964年の東京五輪でも街は大きく変貌し、世界が視線を注ぐTOKYOへと移り変わった。その1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、東洋一の歓楽街「歌舞伎町」のお膝元である新宿駅前付近にスポットを当てた。
* * *
新宿駅前は渋谷駅前に次ぐ都電のターミナルで、11系統(新宿駅前~月島)、12系統(新宿駅前~両国駅前)、13系統(新宿駅前~水天宮前)の三系統が三線・二面の乗車場からそれぞれ発車して行く。背景左側の新宿大ガードをくぐれば中野方面に続く青梅街道で、大通りの真ん中に設けられた新宿駅前停留所からは14系統荻窪駅前行きの都電が発着する。
写真の右手に展開する「歌舞伎町」は東洋一の歓楽街といわれたが、近年は更なる風俗街に変貌し、「欲望の迷宮街」などと揶揄されている。明治期のこの一帯は、大久保(大きな窪地)といわれる湿地帯で、旧大村藩主の屋敷があったところだ。
撮影日は祭日の朝。新宿駅前にやってきた。平日は自動車と歩行者の双方が撮影の邪魔になるからだ。私の立ち位置は降車用の停留所で、広い靖国通りの真ん中でも安全に写真撮影ができる。ちょうど11・12系統の5000形が並んだところを撮影した。もう少し粘っていれば、右端の線に13系統が入線し、三系統の都電が顔を揃えるシーンが撮れたのかも知れない。
右端には写っているタクシーは「日野・コンテッサ」で、自動車ファンには懐かしい車体だ。当時のタクシーは、この「コンテッサ」や同じ日野自動車の「ルノー」クラスの初乗り運賃は60円だった。ちなみに初乗り運賃は「日産・ブルーバード」や「トヨペット・コロナ」クラスが70円、「トヨペット・クラウン」や「日産・セドリック」クラスが80円だったと記憶している。
大正期に入った1920年には東京府立第五高等女学校(戦災により中野に移転し、現在は都立富士高等学校・付属中学校)が開校し、閑静な山手の住宅街として発展していった。1945年の東京大空襲で焼け野となった戦後、有志の働きで「歌舞伎」の公演ができる演舞場と付随した芸能施設を建設しようという構想で、「歌舞伎町」と命名された。この構想は財政面などで難渋し、「新宿コマ劇場」が建設されるにとどまった。1960年代からはポルノ映画館やラブホテル、ソープランドなど風俗産業の中心地となり、当初の健全な芸能娯楽施設の誘致構想は竜頭蛇尾で終わった。
終戦時まで都電新宿線は、伊勢丹から中村屋、高野の前を通る新宿通りに敷設されていた。1949年に北側の靖国通りの拡幅に合わせて、新宿三丁目の手前から四谷三光町を経る新ルートに変更された。1953年には角筈仮停留所で発着していた路線改良中の13系統も、この新宿駅前に合流移転し、三線発着の新宿駅前停留所が完成した。国鉄新宿駅東口からは遠くなったが、1952年に開業した西武鉄道新宿駅に隣接したため、使い勝手の良い都電路線となった。
13系統が1948年まで使っていた新田裏~角筈の専用軌道は、移転後も大久保車庫の回送線として使用され、現在は新宿遊歩道公園「四季の路」として昔の軌道跡を偲ぶことができる。
■撮影:1963年4月29日
◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など多数