『TEXAS FLOOD』STEVIE RAY VAUGHAN
<br />《TEXAS FLOOD》
『TEXAS FLOOD』STEVIE RAY VAUGHAN

《TEXAS FLOOD》

 ジミ・ヘンドリックスが亡くなったのは、1970年9月18日。ロバート・ジョンソン、ブライアン・ジョーンズと同じ、27歳での急逝だった。つづいてジャニス・ジョプリンとジム・モリスンがやはり27歳で他界し(ずっとあとのことだが、ニルヴァーナのカートも)、以来、音楽の世界で「27」がミステリアスな数字として語られてきたことはご存知だろう。じつはこの原稿に取りかかる直前、吉田健一の長編小説『瓦礫の中』を読んでいて「併し二十七で死んだ天才なんてどういふ心境だつたんだろう。そして不思議に若死には二十七が多い。ラフォルグ、キーツ、李賀。これは一種の厄年なのかな」という一節に出会い、妙ないい方だが、シンクロニシティのようなものを感じたりもした。この話はいずれまたなにかの機会に書かせていただくこととしよう。

 さて、そのヘンドリックスの死からちょうど20年後となる1990年の夏、スティーヴィー・レイ・ヴォーンが亡くなっている。《リトル・ウィング》をテーマとした前回のコラムでも触れたとおり、彼は誰よりも強くヘンドリックスとのつながりを感じさせた男。しかも、スティーヴィーが亡くなったのは、やはりヘンドリックスと深くかかわったエリック・クラプトンのコンサートに客演した直後のことだったのだ。などと書いていると、また別の世界に入り込んでしまいそうなので、本論に戻ろう。

 1954年、テキサス州ダラスで生まれたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、3歳上の兄ジミーからの刺激もあって早くからギターを弾きはじめた。アルバート・キングやオーティス・ラッシュといったブルースマンたちのレコードを手本に腕を磨き、ローカル・バンドで経験を積むうち、ジミ・ヘンドリックスが彼のなかで大きな存在となっていく。残された写真や映像を見ると、彼はいつもヘンドリックスと同じストラトキャスターを抱えていたし、アームの位置やチューニングに関しても間違いなく強く意識していたようだ。ライヴでは《ヴードゥー・チャイルド》、《ザ・サード・ストーン・フロム・ザ・サン》、《レッド・ハウス》、《リトル・ウィング》などヘンドリックスの名曲のヴォーン・ヴァージョンを数多く残している。

 80年代前半のいわゆるブルース・リヴァイヴァルを牽引してクラプトンにも刺激を与え、その活躍によってストラトキャスター再評価の動きも巻き起こすこととなったスティーヴィー・レイ・ヴォーンも、もちろん、最初から大きな存在だったわけではない。70年代はダラスやオースティンをベースに試行錯誤の日々をつづけていたのだが、82年の夏、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルのブルース・ナイトに出演したことがきっかけで彼の人生は大きく変わる。たまたまそのステージを観ていたジャクソン・ブラウンがLAに所有していたスタジオを数日間無償で提供することを約束し、さらにデイヴィッド・ボウイがレコーディングへの参加を要請してきたのだ。

 LAで残された音源をもとに制作されたファースト・アルバムの発表は1983年夏。ゆったりとしたテンポのブルースで、少なからずヘンドリックスの《レッド・ハウス》を意識したものと思われる《テキサス・フラッド》はそのタイトル・トラックだ。力強く、一つのひとつの音にきっちりと魂の込められたそのプレイは、基本的には原点回帰的なものでありながら、80年代のあのころ、多くの人たちにきわめて新鮮な印象を与えたのだった。美しくアルバムを締めくくるジャジィなインストゥルメンタル《レニー》も忘れられない。

 スティーヴィーは、85年に一度だけ来日している。そのとき友人がストラトキャスターのボディにサインをもらっているのだが、そこには大きな字でこう書かれていた。“Play with Heart”[次回6/14(水)更新予定]

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大友博

大友博

大友博(おおともひろし)1953年東京都生まれ。早大卒。音楽ライター。会社員、雑誌編集者をへて84年からフリー。米英のロック、ブルース音楽を中心に執筆。並行して洋楽関連番組の構成も担当。ニール・ヤングには『グリーンデイル』映画版完成後、LAでインタビューしている。著書に、『エリック・クラプトン』(光文社新書)、『この50枚から始めるロック入門』(西田浩ほかとの共編著、中公新書ラクレ)など。dot.内の「Music Street」で現在「ディラン名盤20選」を連載中

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