初夏から夏にかけてのこの時期は、多くの鳥たちと同様、カラスにとっても繁殖期。明け方の暗いうちからガアガアと鳴きさわぐ恋の鞘当ての季節はややピークを過ぎましたが、これからは雛を育てる時期に入ります。カラスの子育てと言えば、数ある童謡の中でも指折りの有名な名曲「七つの子」がありますね。けれどもこの歌はもう長らく、その不可解な歌詞の意味をめぐって論争が繰りかえされてきた、いわくつきの歌でもあるのです。一体何が不可解なのでしょうか。そしてそこに秘められた意外な秘密とは?

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長らく紛糾した論争「七つ」は何をあらわす?

「七つの子」は、大正10(1921)年「金の船」七月号初出の野口雨情作詞、本居長世作曲の童謡です。歌詞については、作曲段階での本居長世と雨情の相談で、「古巣に」が「古巣へ」になるなど、若干の変更がありますが、多くの人が知る歌詞は以下のとおりです。
からす なぜ啼くの (A)
からすは山に 可愛(かわい)七つの子があるからよ (B)
可愛 可愛とからすは啼くの (A)
可愛 可愛と啼くんだよ (B)
山の古巣へ 行って見て御覧 (B)
丸い目をしたいい子だよ (B) (※記号は筆者による)
歌詞は、子供のような年少者(A)と、応答する父母か祖父母らしき年長者(B)との対話で構成されています。文脈としてはシンプルでわかりやすいものですが、長らく論争の原因になっているのはタイトルにもなっている「七つの子」の七つと、「山の古巣」です。
論争は鳥類学博士・清棲幸保の「カラスは七羽もいちどきに育てず、せいぜい雛は四羽くらい。また、七歳といったらカラスではとっくに大人だから七歳でもおかしい」という趣旨の疑問を呈したことから始まりました(泉漾太郎著『改訂版 野口雨情回想』(筑波書林)。ちなみに「金の船」の挿絵には七羽の雛が描かれていて、挿絵画家も自然に「七羽」と解釈したようです。
それに対して言語学者の金田一春彦氏が七歳説を唱えます。「七歳」というのは古来伝統的に子供時代のど真ん中の意味であり、母親が子供に「からすにも山にお前と同じ七歳の子がいるのよ」と教えることは自然である、と主張しました。するとこれに児童文学作家で評論家の藤田圭雄が反論します。「七つというのは古来『たくさん』の言い換えであり、たくさんの子供たちが親ガラスを待ちわびているさまをあらわしているのだ」というわけです。
しかし、これらの一般論と擬人化を駆使した七羽説も七歳説も、「山の古巣」という箇所でつまづいてしまいます。擬人化するのであれば、七歳の子供がいる親は一般的にまだ若い年齢で、子育て世代は総じて若い家族です。ですから彼らの住まいが「古巣」=古びた家だ、という表現はそぐわない表現であり、イメージの統一感がなくなってしまいます。
つまり、カラスを科学的現実的に見ると歌詞がおかしい、ということになり、擬人化して解釈してもやはりどこかおかしい、ということになってしまいます。
作者の間違いでしょうか?しかし、北原白秋・西條八十とともに、童謡界の三大詩人と誉れ高い野口雨情。到底そうとはいえないでしょう。

ミステリアスな童謡詩人・野口雨情

「七つの子」の作詞者の野口雨情は、明治15(1882)年、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)で生まれました。「七つの子」のほか、「赤い靴」「証城寺の狸囃子」「シャボン玉」「こがね虫」「十五夜お月さん」など、誰もが知る童謡のスタンダードを数多く作詞しています。名家の生まれながらその人生は破天荒で枠にはまらず、それは作品にも現れています。きわめてシンプルで素朴純朴でさえありながら、どこか不条理でミステリアス、落ちのない作品が多く、同じくミステリアスな作品の多い西條八十が近代的で観念的なのに対して、埋もれた土くさい民俗や人間の根源的な感情や感覚にじかに触れるような魅力と不気味さが共存しています。
「七つの子」論争についても雨情は当然知っていましたが、これは親子が山に帰っていくカラスを見送りながら「からすにもきっと山にたくさんのかわいい子があるに違いない」という気分を歌ったもので、「七羽でも、七歳でも、歌ってくださる方がなっとくされりゃ、それで、よござんしょ―。」と拘泥しない態度を示していました。が、その言葉とは裏腹に「七つの子」に先立つ明治40(1907)年、雨情は「山烏」という詩を発表しています。
烏なぜなく
烏は山に  可愛い七つの 子があれば
ここでも「七つ」が出てきます。雨情の述懐は嘘ではないでしょうし、カラスやキツネはみんな友達、といつくしんでいた雨情の優しい気持ちが生み出した詩であることも間違いではありません。が、「七つ」や「古巣」と言った言葉のチョイスには、雨情があえて言わずにいる隠れた意味が、実はあったのではないでしょうか。

雨情の祖先をたどると「七つ」「カラス」「古巣」が現れ出た

雨情の実家は茨城で廻船問屋(かいせんどんや。江戸~明治時代、河岸や港で商船を相手に積荷を運送・保管・取次などの業務を行った)を営んでいました。野口家はかつて水戸徳川家藩主の御休息所「観海亭」を営んでいた名家でしたが、元をたどれば鎌倉末期から南北朝時代の河内の豪族・楠木正成の実弟・楠木正季(くすのきまさすえ)であると伝えられています。「太平記」によると、後醍醐帝の臣下として兄・正成とともに活躍し、鎌倉幕府を討ち果たしますが、後醍醐帝と対立した足利尊氏との「湊川の戦い」で敗れ、正成とともに自刃します。自害の際、「七生まで同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」(七生滅敵)と誓ったとされ、この七生滅敵が太平洋戦争の有名なスローガン「七生報國」となりました。また、別名を龍泉七郎とも呼ばれていました。「七生滅敵」「七郎」・・・七が繰り返し登場するのは偶然でしょうか。
楠木正成は、知らない者のない有名武将ですが、楠木氏の出自由来は謎が多く、ある時期突然河内に出現します。一説では水銀を取り扱い財を成し、豪族として次第に大きくなっていったといわれます。水銀は船底に防腐剤として使われる「丹砂」を煮詰めると抽出されるものであり、もとは楠木家は瀬戸内海・紀伊半島で楠で作った船の水軍を率いた一族だったようです。
そして、楠木を「くすのき」と読むのは実は当て字で、本来は奇しき(くすしき・霊妙なという意味)木の意味でクスの本字は「樟」となります。大阪府八尾市にある樟本(くすもと)神社は祭神は布都大神、饒速日命(にぎはやひのみこと)。これらは物部氏の祖霊であり、樟本神社は物部氏の氏神社なのです。つまり、楠木氏の祖先は物部氏なのでした。その家系図も伝承されているのです。
物部氏は古代日本を一時期平定し大王でもあったが、後に朝廷から追われて滅びて怨霊となった、「もののけ」の語源となったとされる一族です。樟本神社の境内には丁未の乱(ていびのらん・587年)で蘇我氏との戦いに敗れ討ち死にした物部守屋の首を洗ったとされる池が存在します。
楠木氏の末裔である野口雨情が、物部氏につながっていることがわかりました。さて楠木氏の出身地である紀伊・野にある熊野大社の主祭神である家津美御子大神(けつみこのおおかみ)とは、素盞鳴尊(すさのをのみこと)のことであり、その眷族(手下となる動物)は八咫烏(ヤタガラス)。ここでからすが登場します。
奈良の物部氏の本拠であったとされる石上神社の付近の古名は「布留(ふる)」、神社の後ろにある山も布留山と呼ばれ、袖ふる山とされました。からすの子が棲む「山の古巣」とは、はるか遠い昔、戦いに敗れて滅亡した物部氏の神である盞鳴尊、布都大神、饒速日命を祭る山。そこでは今も変わらずいつかまた日の目を見ようと(盞鳴尊、大国主命の子孫饒速日命は古い太陽神であり、大和朝廷の天照大神に排除されたのでした)「丸い目をしたいい子」=その血を受け継ぐ子孫、または思いを受け継ぐ精神的存在=「七つ(幾世代もの長い年月を経た)の子」がいるんだよ、という暗喩だとすると、意味は通ります。
野口家の家督を継いだ雨情は、受け継がれてきた家伝を、伝えられていたでしょう。また全国をまわり、民謡や民話を採集し、それを基にした新作民謡や童謡を多く作っています。日本の民族の基層にある精神や血脈に触れ、そしてそれが物部氏につながる自身の出生とも強くかかわっていることを強く意識して、密かに歌詞にこめたのではないでしょうか。
筆者は「七つの子」の結びの「丸い目をしたいい子だよ」というフレーズが好きで、そのからすの子を抱きしめたくなります。歴史を経た古族の思いと、素朴で愛らしい歌詞、それが同居し得ていることこそ、雨情童謡のすごさです。
雨情の童謡にはまだまだ不可思議な作品がたくさんあります。いずれ紹介できたらと思います。

参考文献
野口雨情(平輪光三, 佐々木靖章 日本図書センター)
参照サイト
童謡詩人、野口雨情
熊野本宮大社
『池田小百合なっとく童謡・唱歌』

山下公園。「赤い靴履いてた女の子」の像
山下公園。「赤い靴履いてた女の子」の像