今夏も精力的にライブツアーで全国を駆け巡るジュリー・沢田研二
今夏も精力的にライブツアーで全国を駆け巡るジュリー・沢田研二
この記事の写真をすべて見る

 1960年代後半から80年代にかけ数々のヒット曲を放ち、音楽界、芸能界の頂点に立った沢田研二。「君だけに愛を」(68年/ザ・タイガース)、71年にソロデビューしたあとは「危険なふたり」(73年)、「時の過ぎゆくままに」(75年)、「勝手にしやがれ」(77年)、「TOKIO」(80年)……彼の楽曲は、セールス記録はもちろん、印象的なパフォーマンスと演出、一本筋を通した生きざまで、多くの人の記憶にも残っている。

【写真】美しすぎる…斜め45度から見たジュリーの“ご尊顔”がこちら

 日本の芸能史上、沢田研二とはいったいどんな存在だったのだろうか、そして、社会に何をもたらしたのだろうか。昭和を代表するスターの軌跡を綴った短期集中連載の第5回。

*   *   *

苦悩の時代の始まり

 82年から83年、沢田研二の周辺では大きな異変が起こっていた。

 当時、沢田研二が所属する渡辺プロダクションはキャンディーズ、森進一など看板スターの引退、独立が相次ぎ急激に業績が悪化。新たなスター候補の発掘に優秀なスタッフを集約したことで、沢田研二の側からも長年マネージャーを務めた森本精人はじめ多くのスタッフが去ってしまったのだ。これは渡辺プロとしては吉川晃司の発掘、ブレイクに繋がるのだが、沢田研二の仕事には一定の混乱をもたらしたようだ。

 82年中は「おまえにチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」や“同窓会”と称して復活したザ・タイガースの「色つきの女でいてくれよ」とヒットが相次ぎ、どうにか好調を保ったが、83年に入るとシングルはランキング10位から20位に食い込むのがやっと。

 前年に映画「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」で共演した田中裕子との不倫交際も噂され、人気に陰りが見え始めた。沢田研二にとって長い苦悩の時代の始まりだった。

渡辺プロからの独立で開いた新境地

 バックバンドのエキゾティクス(EXOTICS)を84年9月に解散させた沢田研二。84年末のNHK紅白歌合戦で、ギラギラのピンクのスーツに身を包み血塗れになる演出でスタンダードナンバー「AMAPOLA」を歌うという狂気じみたステージを披露した後、特に何の宣言もないまま休養に入った。

次のページ 「ジュリーに何があったのか」と