85年8月のシングル「灰とダイヤモンド」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト
85年8月のシングル「灰とダイヤモンド」撮影/写真映像部・高野楓菜 協力/歌謡曲BAR スポットライト

 メディアは「ジュリーに何があったのか」と騒ぎ立てたが頑なに沈黙を守ること半年……85年6月25日、37歳の誕生日を迎えた沢田研二は大輪茂男らとともに新事務所「CO-CóLO Corporation」を立ち上げた。あくまで渡辺プロの傘下としてではあったが独立。

 当時のインタビューで沢田研二は「危機感があった」と話しているが、ジリ貧の状況を打開すべくスタッフや環境を一新して、表現者として新たな体制を築こうとしたのだった。

 その思いは音楽面で容易に見て取れた。85年8月のシングル「灰とダイヤモンド」、同年9月のアルバム「架空のオペラ」には大輪と共にプロデューサーとしても参画。これまでの歌謡曲、歌謡ロック的な作風とは一線を画した、シャンソンとAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)を融合させたようなセクシーで濃密な世界観の楽曲を高度なテクニックで歌い上げ、新境地を拓いたのだ。セールス面でも前者がオリコンランキング19位、後者は10位と上々の結果。沢田の華麗な復活劇が始まるかのように思われた。

CO-CóLO期を通し追求したものは

 以降、沢田研二は新事務所と同じ名前の新バックバンド「CO-CóLO」を結成。チト河内、石間秀機といった年輩の実力派ミュージシャンを迎え、自分なりの表現を深化させていった。

 しかし、それは、J-POP的な若者向けのポップな音楽性に向かってゆく当時の音楽界の潮流とは正反対の流れ。また、折からの不倫交際へのバッシングも高まりつつあった。86年10月のシングル「女神」などは楽曲といい、演出・パフォーマンスといい会心の作品だったが、オリコン47位という手痛い結果に終わった。

 87年1月7日、沢田研二は伊藤エミと離婚。同年5月、自身が全曲の作詞を担当したアルバム「告白-CONFESSION-」をリリースしたが、重い心境を反映してか大半が内省的な混沌とした作風。

 CO-CóLOの演奏はけっして悪くないのだが、これまでとは異なる私小説的な世界観を求めた沢田研二との相性は良いとは言えなかった。その後「CHANCE」(87年11月)など佳曲はあったものの、この体制はセールス的な結果を出せないまま88年7月に解散。

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