「認知症にはなりたくない」、本音としてはかなりの人がそう思っているだろう。ワタシだとて、自分の物忘れに不安がよぎることを告白しておく。だからこの本音を封殺するつもりはない。ただ、この「なりたくない」の危うさは認知症への想像力の一切を遮断してしまうことにある。認知症は高齢化リスクだから、長生きすればかなりの確率で「なる」のである。そのときに「なりたくない」の方へ自分の持ち札全部を賭けてしまっておくと、精神的にも身ぐるみ剥がされ、不安と混乱の中に落ち込んでしまうだろう。誰であれ老いは防ぐことは出来ない。しかし備えることは出来る。その意味で本書は、まずもって認知症には「なりたくない」と言う人々に読んでいただきたい。

 それにしてもメディアを通じて発表される日本のこれからに関わる数多のデータをどうとらえればいいのだろう。おなじみの、日本の高齢化率26・7%で世界一、そして高齢化率は上昇し続け2060年には40%だとか。そして認知症だ。その将来推計値は2025年には認知症の人700万人で高齢者の5人にひとりとなる、とある。だからどうなんだ。

 私自身は、こうしたデータの向こうに「恫喝」の響きを感じる。私達の社会の壊滅的な状況を示して震え上がらせて、そしてどこに連れて行こうとするのだろうか。そこには未来への扉が私達の面前でゆっくりと閉ざされていくような恐怖が張りついている。私達は私達の未来を不安と怯えの中でしか描けないのだろうか。

 本書は全く異なるアプローチから認知症を、この社会の未来を描く。認知症を「問題」として捉えるのではなく、ひたすら「人間の物語」を連ねる。著者は十数年をかけ全国各地と、オーストラリア、カナダなどの認知症の人と認知症に関わる人達を訪ねては、じっくりと対話を重ねていく。例えば、1章に登場する茨城県の認知症の婦人を訪ねたのは2004年夏のことだ。その出会いの様子を著者はこんなふうに描く。その時の天候はどうであったのか。玄関で出迎えた本人の言葉、表情。その装いはどのようなものであったのか。話を聞いたところは自宅のどこで、どんな雰囲気であったのか。愛犬の名前までも書き添える。

 そこには認知症を認知症単独で語るのではなく、その人の暮らしや人生の総体から見ていかなければならないという著者の確固とした思いがある。丹念な観察と思いの交差が記述に滲む。だから読み進むに連れて、私もまたその対話の場に立ち会っているような臨場感を持つ。世に出回る「認知症解説本」では得られない出会いに満ちている。

 私もまた十数年前から、放送というメディアの場で認知症を伝えてきた。著者である朝日新聞の生井記者とは認知症の研修会やフォーラムなどで何度もお目にかかっている。わあわあと騒がしい人格の私とは対照的に生井記者はいつもじっと見据えるような静かな眼差しで使い込んだ取材ノートを胸に抱えている印象がある。そんなスタンスは本書にも現れている。綿密でありながら、著者自身の論点については極めて抑制的なのだ。私ならやりそうな、それはこうあるべきとか、こうしなければならないといった力みは注意深く回避されている。例えば、6章の、認知症の本人発信の先駆者、オーストラリアのクリスティーン・ブライデンとの時間を過ごしたあとの記述。

「私が、彼女をどう見ているか、こちら側の内面がクリスティーンをどう感じるかが、彼女の答えを決めているように感じた。認知症は問う側を映し出す「鏡」のように思えた」
 認知症の人と自分自身との深いところでの交感が、ここにはある。問う側が、問われているという誠実で真摯な自己検証の感覚だ。

 著者の取材活動は長く広い。20年以上前の痴呆病棟のルポ、乳がん、ホスピス、障がい者活動、東日本大震災などなど。それぞれのテーマが次第に大きなうねりとなって撚り合わされ、ある必然に導かれて、やがて認知症の物語につながっていく。それはまるで伏流水が湧出し合流し大河になっていくさまを目撃するようで、圧巻と言っていい。
終盤、著者は認知症の枠を超え、この社会を見つめる。

「認知症の当事者発信を追い続けて気づかされたのは、能力主義からの解放の大切さだ。何かが「できる」からよいのではなく、そこに「いる」「存在する」意味と価値の重さだ」
 そして、かすかな感情の高ぶりの中で、こう問いかける。
「私たちの暮らすこの国は、そう思える社会か。年を重ね、衰えれば生きている価値がないと見る社会か」

 読み終えて、認知症にはなりたくない人びとの中に小さくとも確かな「希望」が生まれるといい、私はそう願う。