
哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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ソウルに来ている。恒例の講演旅行である。去年後半は抗がん剤治療のため仕事をキャンセルしたので、韓国ツアーも中止になった。その仕切り直しである。韓国に来るのは今年で14年目。コロナで一時的にオンライン配信ということがあったが、一昨年から再開された。
私の本は56冊が韓国語訳されている。昨日はインタビューで、韓国の読者は私に何を求めているのかと訊かれた。そんなこと訊かれても困る。たぶん韓国の言論人の中に「私のようなこと」を言う人があまりいないので、やむなくアウトソースしているのだろうとお答えした。さて、私には提供できるが、韓国の言論界にはあまり提供者がいない情報とは何だろうかと考えた。たぶん、武道とマルクス主義の話だろうと思う。
どうして武道的思考が韓国社会において奇異なものであるのかは話し始めると長くなるので、別の機会に譲る。もう一つの、マルクス主義が韓国に深く土着していないのは歴史を振り返れば知れる。李氏朝鮮末期や日本の植民地時代に革命思想の研究が許されるはずがない。軍事独裁下では「反共法」があって、マルクスの著書を所持すること自体が犯罪であった。民主化からまだ40年。マルクス主義研究の蓄積には時間が足りない。でも、マルクス主義の歴史理解のスキームを知らないと20世紀の社会科学の多くは(マルクスを批判する立場のものを含めて)理解し難い。
私は16歳のときに『共産党宣言』を読んで以来、マルクス主義について書かれた大量の文献を浴びるように読んできた。私の年齢の人たちは似たような読書経験を持っているはずである。日本人のマルクス理解の特徴は、そんなふうにして「血肉化」したせいで、マルクスの思想をマルクスの術語を使わずに、自分の言葉で語ることができる人がいるということである。かつてエマニュエル・レヴィナスは「マルクスの思想をマルクスの術語で語る人」を「マルクシスト」と呼んで、この二つを差別化したことがある。私もその風儀に従う。
韓国の人たちは原理主義的「マルクシスト」には警戒心を抱くが、マルクシアンには胸襟を開いてくれそうな気がする。
※AERA 2025年6月16日号
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