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室町末期に明応の政変を起こし、戦国時代を始動させたと言われる細川政元。彼は足利将軍を傀儡化するほどの覇者となったが、魔法習得のために「弟子入り」していた。

【図】超エリートな細川政元の家系図

室町末期に詳しい古野貢教授は、著書『オカルト武将・細川政元』の中で、彼の師匠「司箭」の存在について言及している。

新刊「『オカルト武将・細川政元 ――室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』(朝日新書)」から一部を抜粋して解説する。

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政元のオカルト的性格の実態に近づくにあたっては、先ほど少し名前の出た謎の人物、司箭のことについて注目すると役に立つでしょう。

この人はもともと宍戸家俊という名前で、その素性が『宍戸系図』という史料に載っています。

「至于備中国而住焉、嗜兵法、受魔法之術、励精労思以得通力、其誉顕於世、自号司箭、遂登洛陽愛宕山、現身入魔界、為太郎坊眷属、今之愛宕山司箭像是也」(宍戸系図)

これによると、司箭は備中国(今の岡山県西部域)に住んでいて、「司箭」の号は自ら名付けたようです。そして「兵法をたしなんでいる」「魔法の術を受ける」「精労の思いをもってその力を得る」などと書いてあります。さらには「愛宕山に登り、そこで魔界に入った」「太郎坊なるものを眷属(けんぞく)とした」とあります。

あるいは『芸藩通志』という史料にも、「俗人であった頃は深瀬や祝屋の城主であったが、愛宕の神に祈誓し、修行を一生懸命にやったところ、その術が神に通じて自由に空が飛べるようになった。空を飛んで山城の愛宕に入った」などの内容が書かれています。

彼は現在の広島県や岡山県に勢力を広げる宍戸氏の生まれで、西国にバックグラウンドを持ち、自分自身でいろいろ修行をして魔法を習得したといいます。政元はこのような人物を崇めて師匠とし、魔法を学んだと考えられます。だからこそ、政元のエピソードにも天狗の行や愛宕、飛行といったワードが出てくるのでしょう。

また、政元が司箭に学んだという点から、政元の独特なパーソナリティを読み取ることができるかもしれません。というのも、司箭の出身である宍戸氏はあくまでローカルな家柄に過ぎず、家格からすれば細川京兆家とはまったく比べ物になりません。にもかかわらず、政元は愛宕の術なり天狗の術なりを学ぶにあたって「身分はどうでもいいから自分の知っていることを教えてくれる人に学ぶ」と言わんばかりに司箭へ弟子入りしているわけです。

後の延徳年間頃に政元が越後・東北へ下向する際、政元の一行について「山伏と名乗るものが同行している」「皆、山伏の身なりで出かけていくらしい」などの噂が流れていたことが『蔭凉軒日録』(相国寺の塔頭、鹿苑院蔭凉軒の主人が代々書いてきた日記)などの史料に記されています。政元は室町時代ではトップクラスの武士の家に生まれたわけですが、あえて山伏のような、自分の本来の属性とは違う人々へ近づいていったところがあります。

では当時の山伏、特に司箭のような超能力のエピソードを数々持っている人間は周囲からどのように見られていたのでしょうか。それは人間界の常識から外れた存在であり、畏怖されるものであったでしょう。人々は彼らに助けてもらうこともありましたが、その一方で力を持ちすぎてほしくはない、必要なときには来てもらって祈祷してもらうのはありがたいけれど、いつも近くにいられると少し困る存在だと感じていたかもしれません。

そんな存在に近づいて同一化してしまった政元のような人間は、当時の常識的な感覚でいえば「別世界の人」「近づいたら危険な人」であったのは間違いないでしょう。この点から考えると、政元は変人としか言いようがないのですが、ではただ変な人と言っていいかというとそうとも言い切れない、というのは本書で繰り返し強調するところです。

『オカルト武将・細川政元』では、政元が織田信長よりも先に実行した「延暦寺焼き討ち」、日野富子と結託した「明応の政変」の内幕などを詳述。教科書には載っていない、応仁の乱から信長上洛までの「空白の100年」を解説しています。

オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」 (朝日新書)
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