実家から車ですぐの太平洋に面した新舞子浜も、再訪した。小学校5年生のころから自転車できて、磯釣りを楽しんだ。浜を歩くと、当時のことが浮かんでくる。「ハゼやキスが釣れて、防波堤までいくとカレイもかかり、フグやボラも揚げました」

 小学校と中学校に寄った後、「母校」と呼ぶ県立磐城高校を訪ねた。中学校の野球部で市の大会で初めて準優勝し、福島市での県大会へ進んだ。学校じゅうが「快挙だ」と沸き、父母も応援にきてくれた。2回戦で敗退したが、1回戦を勝ったことで、故郷へ胸を張って帰った。

 磐城高校でも野球部へ入ろうと思ったら、2年前の夏の甲子園大会へ出場し、東北勢で3校目の準優勝を果たしたことで、全県から野球の上手い生徒が集まっていた。とてもレギュラー選手は無理、とあきらめた。

 代わりに打ち込んだのが、アマチュア無線。理系の大学への進学を考えていたほど物理が好きで、電波の速さや無線に使う周波数からあるべきアンテナの長さをはじき、屋根に立てた。屋根瓦を割って父に怒られはしたが、国内外の無線家と夜中まで交信を重ねる。

 ただ、数学のベクトルの授業でつまずいて、進路は文系へ変更。大学受験で1年浪人し、77年4月に明治大学経営学部へ入学。クラスの運営を任され、文化祭の実行委員にもなった。父譲りの企画好きという『源流』からの流れが幅を広げ、いろいろなイベントを考え出す。

 ゼミでは、食品業界のマーケティングを学んだ。就職では、子どものころに両親が収穫したコメや野菜の袋詰めを手伝いながら感じた「食は、人間の暮らしで一番大事」との思いも加わり、小麦と大豆、菜種、トウモロコシの穀物4品を扱っていた昭和産業を選ぶ。これも、父母の姿から生まれた『源流』の流れが生んだ、と言える。

廃業後の新会社にともに成長願って植えた桜の木5本

 81年4月に入社して、いま45年目。一番忘れられないのが、岩手県一関市にあった子会社のみつわ食品への出向だ。同社は一関市と盛岡市の2工場でパンや米飯、菓子をつくり、営業所で売るほかにスーパーや小売店へ卸し、45の小・中学校へ月間40万食の給食も提供していた。

 だが、全国規模の量販店や製パン企業が進出して競争が激化するなか業績が悪化。赤字が続き、98年9月に40歳で社長に就いて再建の可否の判断を任される。すぐに工場と営業拠点を回って不振の原因を分析したが、価格や品質の競争の後れは回復が困難として、廃業と社員・パートタイマーら約200人の全員解雇を昭和産業へ進言。99年5月末で廃業とした。

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