一関で朝は会社の男子トイレなどを掃除し、日中は廃業へ向けての計画づくり。夜は最終便の出荷を確認してから退社した。植えた桜の苗木は見上げる高さになった(撮影:狩野喜彦)

『源流Again』で、その本社と工場があった一関市も再訪した。工場は設備を一部更新したばかりだったので、新会社をつくって移管して社長に就き、社員とパートタイマーの62人を再雇用。その後に別の食品メーカーへ売却したが、当時の社員がまだ残っていて、厳しい結果をもたらした自分を笑顔で迎えてくれた。

 菜花堂の開業前に、南側の陽当たりがいい道路沿いに植えた5本の桜の苗木は、ずいぶん伸びていた。「あのときは、苗木はすごく細くて、菜花堂とどちらが早く成長するか、競争しようとの思いでした」。桜の木を見上げながらそう言うと、脇にいた当時の部下が頷いた。

会社が守るべきは?常に「従業員だ」と言い切ってきた

 2001年6月に昭和産業へ戻り、要職を歴任して2016年社長、2023年4月に会長となる。一関工場の売却先に残っていた元部下によると、その間、背が伸びていく桜の木の下で、みんなでバーベキューを楽しんでいた、という。

 事業環境の激変があったにしても、早く手を打つべきだった。よく「会社が守るべきステークホルダー(利害関係者)は誰か」と議論になるが、常に「従業員だ」と言い切ってきた。無論、きれいごとを言うつもりは、ない。経営が苦しかったにせよ、いろいろな選択肢があるなか社員の生活権を奪った。その意味で、自分は経営者として失格だ、とさえ思っている。

 再訪する前に、当時の日記を開いてみた。「悔しさは残ったままであるが、もう少し早い時期にみつわ食品の社長として出向していたら、もう少し違うやり方があったのでは? もしかすると再建できたのではないかと自問自答に苦しんだ日々」とあった。あのとき胸に刻んだのが、「二度と社員の解雇をしない」との誓いだ。

 大学へ進むときに旅立ったいわき駅を再訪して「ここが自分にとってすべてのスタートだった」と振り返った。そして一関市で「心の故郷はいわき市だとすれば、精神的な故郷は一関のような気がします」と言って、桜の木に別れを告げた。(ジャーナリスト・街風隆雄)

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