前例やパターンを優先して読者を軽視した結果こそ、昨秋の兵庫県知事選報道であろう。異形の選挙戦を目の当たりにしながら、新聞・テレビは、市民の疑問に答えて核心的な情報を射貫こうとするより「選挙結果に影響を与えない」(これは選挙民の役に立たない、というのと同じ意味である)や「中立」というおなじみの基準に依拠し、その結果、多くの市民が報道にフラストレーションを抱き、知りたいことを求めてSNSへと向かった。

 激動する時代、何をどう報じるかの答えは前例の中になく、読者・視聴者つまり市民を意識してこそ見いだせる。だからといって目先のウケを狙い、コンビニグルメや動物映像、あるいは溜飲の下がる断言に頼るなら、それこそ「どこにでもある」ネタだ。金を払ってまで読むメディアではないと見切られる。

「人々を市民と考え、観衆や消費者としては扱わない。そのことが、ジャーナリストの仕事の仕方を決める。どんなネタを追うか、どのように追うかの両面においてである」。やはり米国ジャーナリズムの教科書である『米国ジャーナリズムの原理』(ステファニー・クラフト、チャールズ・N・デービス共著、未邦訳)はいう。本書が訴える「そこでしか読めない」は、報道の中身だけでなく、ジャーナリズムの姿勢をこそ、また考えさせるのだ。

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