土地に不案内の1年目は自動車の運転は禁止で、巡る足は自転車かバス。面談の約束が取れれば、その時間にバスでいく。冒頭の坂出市の医師宅が、その一例だ。その後、次号で触れるが、もう一度「会社を辞めようか」と思ったことがあった。

 1959年1月に東京都新宿区で生まれ、銀行員の父と専業主婦の母、4歳上の兄の4人家族。父の転勤で引っ越しが続いて、小学校へ入ったのは長野県更埴市(現・千曲市)だ。通学路にある田んぼの横に小川が流れ、夏はその川の中を歩いた。小学校2年生で東京都杉並区へ転居、区立の小中学校へ通う。

 高校進学のとき、兄が中央大学杉並高校から中大法学部へいっていたので、親に「あなたもそうしなさい」と言われ、考える暇もなく決まる。でも、大学受験のプレッシャーがないから、高校1年生からずっと、12月中旬に試験が終わると遠い親戚がやっていた北アルプス麓の白馬村のロッジへ、1人でいった。

 手伝いをしながら、時間が空くとスキーを楽しむ。刺激を受けたのが、ロッジに泊まる大人たちの会話だ。ときに参加した。大人たちの社会を垣間みる感じで、面白かった。人との接し方に新たな世界が生まれて、『源流』の水源になっていく。

精鋭部隊が揃う本店の営業部でゼロからの出発

 高松支店の次は、東京・日本橋の本店営業部。当時の本店営業部はいまと違って、営業地域はとくになく、全国どこへいってもいい。選び抜かれた精鋭部隊が揃い、家族的な雰囲気もあった高松支店とは別世界。入社4年目できた身は最若手で、先輩から引き継ぐ客はなく、また預かり資産ゼロからの出発だ。

 ただ、高松支店で4年近くやれば、証券市場のことも営業のやり方も分かっている。上場会社や投資資金がありそうな中堅企業に照準を合わせ、開拓していった。

 当時は、どの証券会社でも売買手数料は同じ。そのなかで野村を選んでもらえたとしたら、担当者の善し悪し、個性からだろう。「型にはめられるのが好きでなく、他人と違うことをやりたい」という就職の基準に合っている、と頷いた。

 95年6月、豊橋支店で初めての支店長になる。トップ営業もしたが、日常の営業は部下たちへ任せ、商工会議所など地元経済界の集まりへ出た。「野村證券の代表」としてだが、まだ36歳。出席者は年配者ばかりで、何か言うと面白がられて、笑われた。商工会議所の理事になって理財部会の副部会長も務めたが、部会長は50代半ばの銀行の取締役支店長。「野村は30代の若輩者をもってきて、豊橋をなめとるのか」と叱られた。

次のページ 豊橋商工会議所では「若輩」を補うため小さな会合にも出た