哲学者 内田樹
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 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。

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 兵庫県政の正常化を求める集会で一言話してほしいとお声がけを頂いた。私以外の登壇者は全員がYouTubeでほぼ毎日配信しているインフルエンサーの方々である。文字情報中心に発信しているのは私一人。この利用媒体の差はどこにあるのだろう。

 動画配信のアドバンテージは圧倒的な速報性と即興性にある。演劇的才能も必要だ。だから、見始めたら止まらない。世論形成に大きな影響力を持つのもわかる。

 それに比べると、私のような文字情報中心の発信はなかなかダイレクトに世論を喚起することはできない。文字は声ほど「アジテート」力がない。

 でも、文字発信にもそれなりの利点はある。それは動画配信に比べると、読者の参与の割合が高いということである。

 文章の場合、読んでいるうちに、それまで読者の脳裏に漠然と漂っていた思念や感情の輪郭がはっきりしてくるということがある。「そうだよ。オレも前からそう思っていたんだよ」と膝を打つということがある。「新しい知見を獲得した」ではなく「自分と同意見の人と出会った」という満足を覚えるのである。「オレも前から」というのは実はしばしば読者が事後的にこしらえた模造記憶なのだけれど、それでよいのである。この「オレも前から思っていたこと」として再発見された「他人の意見」は読者のうちに着床して、そこに深く根を張る(ことがある)。

 本ならわかりにくいと思ったら読み飛ばせる、気になったところは繰り返し読むことができる。何年も経ってから書架から取り出して読むこともできる。電気が通じない環境でも(蛍の光、窓の雪で)読むことができる。動画は法理的には配信者の所有物だが、本は読者の財物である。「オレのもの」感が動画とはだいぶ違う。だから、文字発信されたものには「読者の懐に入り込む」チャンスがある。

 出会い頭に「視聴者の気持ちをさらってゆく媒体」を選ぶか、だいぶ手間暇はかかるが「読者の懐に入る媒体」を選ぶか、これは発信者が選択することである。良い悪いの話をしているのではない。媒体に選択肢があるというのは端的に「よいこと」である。

AERA 2025年3月3日号

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