アモイにて(撮影/小熊一実)
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アモイにて(撮影/小熊一実)
アモイにて(撮影/小熊一実)
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アモイにて(撮影/小熊一実)
台北にて(撮影/小熊一実)
台北にて(撮影/小熊一実)
台北にて(撮影/小熊一実)
台北にて(撮影/小熊一実)

 第106回を書いてすぐに続きを書こうと思っていたのだが、いろいろなことがあって、間が空いてしまった。その間の話も、おもしろいと思うので、書いておきたい。

【アモイの旅、その他の写真はこちら】

 思い立って突然、岩手県一ノ関のジャズ喫茶「ベイシー」を訪問した話は前回書いたが、それは木曜だった。その次の週の月曜から中国のアモイに行くことになっていたので、出発までに、第106回を書いておきたかった。しかし、いつもの仕事が詰まっていた上に、イベントの出張公演もあり、体調を崩している先輩の家を訪ねて10数年ぶりに再会をしたりと、楽しくもあったのだが、原稿は第1稿を書き上げるのがやっとだった。

 しかたがないので、アモイで推敲して入稿しようとパソコンを持って中国へと向かったのだが、そこでとんだ事故に遭ってしまった。

 アモイに着いて、二日目の昼。この旅のコーディネートをしてくれている友人が迎えに来ていたので、ホテルのロビーで落ち合い、さあ、出かけようという時の出来事だった。
 そのホテルのロビーの床は、ぴかぴかの大理石だった。しかも、そのスペースには、屋内だというのに池もあった。噴水があったかどうかは覚えていない。こども達がその池の水をかけあって遊んでいた。わたしは、そのこぼれていた水に左脚を乗せてしまい、片足だけが滑り込んで大股開きになり、倒れ込んでしまったのだ。

 友人がびっくりして飛んできて、手を引き上げてくれたのだが、あまりの痛さに、立つことができなくなっていた。
 その友人がホテルにクレームを言い、車椅子を貸してもらい、マッサージルームで、マッサージをしてもらうことになった。あとで調べたことによると、怪我をした直後は、マッサージをせず冷やすのがよいらしいが、1時間ほどマッサージをしてもらった。ホテルの責任者が来たので、「医者に行った方がよいと思う」と言ったら、すぐに連れて行ってくれた。レントゲンを撮った。幸い骨に問題はなく、打ち身のようなものだと言われた。湿布と漢方の薬をもらい、時間をかけて治すしかないと言われた。氷で冷やすようにと言われた。

 今回は、ビジネス・ネットワークを広げようという目的でアモイに来たのだが、予定していた工場見学などはキャンセルし、食事のお付き合いだけにしてもらった。歩けないだけなので、食事とお酒はいただくことができた。

 そのようなわけで、三泊四日のアモイの旅の間、痛さと不便と闘いながら過ごすことになってしまった。どれくらい痛かったかというと、車椅子からトイレに移動するのが、壁を頼りに、痛みをこらえながら、やっと移動できるといった感じだ。一人では、痛くて立つこともできなかった。

 帰りも、航空会社に電話をしてもらい、車椅子の手配をした。搭乗手続きをするデスクまで航空会社のスタッフが迎えに来てくれ、その後も、飛行機に乗って降りるまで、車椅子を押してくれた。
 行きは、飛行機に乗ってから座席まではなんとか自力で歩いたのだが、それがたいへん辛そうに見えたのか、帰りは、社内の座席の間を通れる、小さな車椅子を用意してくれた。わたしはその特注の車椅子に乗って、美しいキャビンアテンダントに飛行機の座席の間を後ろ向きに引っ張ってもらって、降りることができた。

 成田空港からの帰りも、バスや電車に乗ることができず、タクシーで帰宅した。2万7千円した。

 帰った次の日から、わたしが主催するイベントが2件待っている。わたしもお手伝いさせていただいている、電動車椅子を製作している「さいとう工房」の齋藤省さんに電話をし、次の日の朝に、築地の仕事場まで、電動車椅子を届けてもらうよう手配した。「さいとう工房」は、一人ひとりの障がいに合わせたオーダーメイドの電動車椅子を製作している会社だ。

 土曜には、こども向けのジャズ・ライヴ「こじゃず」、日曜には、こどもむけの落語会「こども寄席」。金曜は、その仕込みとリハーサルの日だ。会う人ごとに、なぜ電動車椅子に乗っているのかを、できるだけ身振り手振りを交えながら話し、一日を過ごした。

 それから1週間後に、今度は台湾に行くことになっていた。それまでに歩けるようになるのか不安だったが、怪我をしてから2週間後になっても、歩けないはずがない!という勝手な思い込みで、1週間を過ごした。月曜日に病院に行き、松葉杖を借りた。すでに、松葉杖を使えば一人でも歩けるようになっていた。

 電動椅子は小型のもので、タクシーにも乗りますから、ということだったが、すべてのタクシーに乗せることができるわけではなく、止まってくれたタクシーの運転手さんが、「うちのには、乗らないから」といって、後ろのトランクに乗るタイプのタクシーを、わたしに代わって見つけてくれたりした。怪我をして、電動車椅子に乗って、多くの人の親切に気づいた。

 その1週間で、わたしの主催する、大人向けの「築地本願寺寄席」を開催し、5日間の貸しホールの運営をした。
 事故にあってから2週間を過ぎる頃には、なんとか、ふつうに立って歩けるようになってきた。

 わたしは予定通り、台湾への一人旅へと向かった。
 台湾では、夜市を歩いたりするのには支障はなかったが、やはり、仇分での坂道は堪えた。『千と千尋の神隠し』のモデルとなった場所や、1990年に日本で公開された侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『悲情城市』の場所まで行ったが、そこで力つき、帰りは、タクシーでホテルまで帰った。台北でも、音楽情報を提供できないかとジャズ・クラブに行ったが、そこでは、特別お知らせするようなニュースには出会えなかった。

 一ノ関のジャズ喫茶「ベイシー」のつづきを書こうとしている間に、こんなことがあったのだ。人生とは、予想できないことの連続だ。つづきは、次回ということで。 [次回8/24(水)更新予定]