前出の三井同様、ポスティングでの移籍をはたせなかったのが、横浜時代の真田裕貴だ。
2011年、リリーフで3年連続50試合以上となる53試合に登板し、2勝0敗3ホールド、防御率4.22を記録した真田は11月、「長年の希望である海外で勝負したい」と申し入れた。球団側も、「ウチとしては痛い。(球団買収を決めた)DeNA側からも引き留めの要請があったが、本人の意志が固かった」(佐藤貞二球団常務)と真田の希望を容認した。
そして12月、米大リーグ機構は全30球団に公示を行ったが、締め切りまでに応じる球団はなかった。
すでにDeNAを自由契約になっていた真田は「アメリカ一本。日本は考えていない。プレーができる環境を与えてくれたらいい」と年明け後もハワイで自主トレを行い、引き続き米球界からのオファーを待った。
だが、結局移籍先が決まらず、3月に古巣・巨人に復帰。「4年ぶりに巨人のユニホームを着ることになるが、新人と同じ気持ちでもう一度勝負したい」と決意を新たにしたが、12年は1軍登板わずか1試合、打者4人に対し、1死も取れずに3失点と結果を出せず、オフに再び自由契約となった。
メジャー挑戦を熱望してFA宣言したが、交渉がまとまらなかったのが、横浜・相川亮二だ。
2008年、右肩手術や腰痛の影響で武山真吾、鶴岡一成に出番を譲るなど、出場101試合に終わった相川は、海外FA権を取得していたことから、渡米中の11月、「せっかく夢だったアメリカに移籍できるチャンスが貰えて、何もせずに悔いを残すことはしたくなかった」とFA宣言した。

横浜は国内他球団と交渉がまとまらなかった場合の残留は認めていたが、メジャー挑戦の場合は、交渉が不調に終わっても残留を認めておらず、メジャーと交渉した時点で、もう後戻りはできない。
こうした事情から、球団側も複数年契約を提示して慰留に努めたが、相川は「控えでもいい。挑戦したい」とランディ・ジョンソンら大物メジャー選手と契約するアラン・ニーロ氏と代理人契約し、交渉をスタートさせた。