憲法9条は絶対に破棄されることはない。なぜならそれは、日本人の無意識の超自我に根ざしたものだから……。そういわれても全然ピンとこないけど、読後にはものすごーく納得してしまった。
 柄谷行人『憲法の無意識』。ありきたりの憲法論に飽きたあなたは必読。戦後民主主義なんてチンケなレベルの話じゃないからね。
 本来、憲法9条は1条をつくるためにあった、マッカーサーは9条より1条に熱心で、戦争放棄は日本の幣原喜重郎首相の「理想」だった、などの話もさることながら、いちばん驚いたのはここ。
〈徳川の体制はまさに秀吉の朝鮮侵略を頂点とする四〇〇年に及ぶ戦乱の時代のあと、つまり「戦後」の体制なのです〉
 えーっ、戦後の日本は徳川体制と同じ? じゃあ類似点は?
〈第一に、象徴天皇制です。(略)天皇が政治的に活性化したのは、王政復古が唱えられた建武中興のころで、その時に生じた混乱が、戦国時代から秀吉にまで至ったのですが、徳川はそれに終止符を打った。その基礎にあったのが徳川時代の「尊王」です。それは象徴天皇制のようなものです〉
 なるほど、その通りだな。
〈第二に、全般的な非軍事化です。大砲その他の武器の開発が禁止された。武士は帯刀する権利をもつが、刀を抜くことはまずなかったので、刀は「象徴」にすぎなかった。その意味で、武士の非戦士化です。(略)/ある意味で、現在の憲法の下での自衛隊員は、徳川時代の武士に似ています〉
 おおっ、たしかに!
〈戦後憲法一条と九条の先行形態として見いだすべきものは、明治憲法ではなく、徳川の国制(憲法)〉という観点に立つとき、憲法1条と9条は日本人の無意識に深く根を下ろしており、だから60年間変えられなかったのだという説がストンと胸に落ちる。
 改憲が現実性を帯びはじめたいま、憲法擁護本が急増しているのも「無意識」の産物か。明治の日本は戦争ばかりやっていたが、徳川時代は250年、平和が保たれた。それが先行形態なのである。

週刊朝日 2016年7月1日号

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