ノートルダム清心女子大学学長などを務めた修道女の故渡辺和子さんが著した、ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』。AERA 2024年9月23日号では、この言葉をめぐる様々な想いを取材した。専業主婦を経て、キャリアを重ねてきた実業家・薄井シンシアさんは、どう捉えているのか。

【写真】専業主婦17年を経て外資系日本法人代表に 薄井シンシアさんが語る「選べる立場になればさっさと動く」

ANAインターコンチネンタルホテル東京・副支配人時代の薄井シンシアさん=2016年(photo 朝日新聞社)
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「専業主婦を仕事としてやろう」と決めた

 私は学校で「女性も仕事を持つのが当たり前」という教育を受けたので、出産したらワーキングマザーになるつもりでした。でも、生まれた娘を抱いているうちに「子どもと一緒にいたい」と感じたのです。1日は24時間しかないので、子どもと過ごす時間を持とうとすると、仕事のプライオリティーが下がる。だから、専業主婦になりました。

 これは私の価値観にもとづいた行動です。人によって価値観は違うから、仕事のプライオリティーが高い人もいるでしょう。大切なのは、自分がどのような価値観を持っているのかを見極めること。その価値観に基づいて優先順位をつけると、行動は自然と決まると思います。

 ただ、弁護士になった幼馴染みが羨ましいと感じたこともあります。だからこそ、「専業主婦を仕事としてやろう」と考えて、元夫の仕事、娘の学業を理解して相談にも乗れるよう、私も学び続けました。

 人間のニーズは、食事などフィジカルな面だけでなく、メンタルな部分にもありますよね。元夫が国連代表部の人権委員会で勤務していた時は私も元夫の仕事内容について勉強しましたし、娘が金融機関に就職すると、私も学びました。娘は今は米国で弁護士をしていますが、今でもしょっちゅう電話してきます。私が成長していないと娘の話を理解できなくなる。だから、親である私も成長を続けてきました。

 私が専業主婦を経て17年後にすんなり仕事に戻れたのは、この経験があったからだと思います。

バンコクで「食堂のおばちゃん」として仕事に復帰

 元夫の駐在先だったタイのバンコクにいた時に「食堂のおばちゃん」を始めました。次第にカフェテリアのデザインやプロデュースまで任されるようになりましたが、52歳で帰国後、日本ではなかなか仕事が見つかりませんでした。唯一見つけたのが時給1300円の電話受け付けのパート。そこでも実績をつくり、ANAインターコンチネンタルホテル東京に契約社員として入社しました。その後、数社を経て外資系ホテルの日本法人代表も経験しました。

 なかなか仕事が見つからなかったときもありましたが、焦りはありませんでした。条件を下げたら何か見つかるでしょう? たとえばホテルの仕事は求人がたくさんあっても「やったことがないから」と避ける人がいますが、いきなりホテルの総支配人になるわけではありません。まず清掃から始めればいいのです。

「やりたいことを見つけよう」と言う人もいますが、私は「やりたいこと」よりも「自分には何ができるか」を考えます。「やりたいこと」って恋愛みたいなもので、相手もこちらを向いてくれないと一方通行ですよね。仕事も、やりたくてもやらせてくれる職場がないとできません。

薄井シンシアさんは専業主婦を経て、当時暮らしていたバンコクで「食堂のおばちゃん」として再び働き始めた(photo gettyimages)
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女性として生まれただけでハンデだった