2008年8月、母親とのツーショット写真(画像=事務所提供)

事務所から冷遇も「絶対帰るもんか」

 当時はレコードだったが、森口さんのデビュー曲はオリコンヒットチャートで16位を記録した。

「ガンダムという作品のパワーがあって、熱心なファンの方々がいて、売りたいと思ってくれるスタッフの方たちの思いがあって、16位までいったんです。でも、その後は売れなくて……というより、売ってもらえなくて。堀越学園の卒業間近に、事務所の上層部から『あなたは才能がないから福岡に帰ったほうがいい。あなたの人生のためにも早いほうがいい』とリストラ宣告を受けました」

 所属事務所は、同期デビューの松本典子の売り出しに力を入れているように映ったという。

「事務所はのりちゃんばっかり……それが私はメンタル的につらかったんです。同期たちとのライバル心というよりも、大人の事情で苦しめられていました。その頃の日記には『のりちゃんばっかりずるい』と書いていて、後ろにページをめくっていくと『のりこばっかり。のりこブー』と書いていました(苦笑)。まだ10代の子どもだったんですね」

 次第に、事務所からは「ガンダムの曲を出したんだからもういいじゃないか」という雰囲気が漂いはじめ、扱いも雑になっていったという。

「アニソンは今でこそ日本が誇る文化になりましたが、当時は地味な存在でした。だから、いつの間にか、事務所の名簿からも名前が削除されていました。でも私にとってはこれからというときだったし、『絶対に帰るもんか』と思っていました。だから、粘りましたよ。上層部は私を見ようとしなかったですけど、当時の部長や現場のマネジャーは『この子は面白いし、ガッツがある。何か道があるはずだ』と言ってくださった。そんな流れで舞い込んだのが、バラエティー番組の仕事だったんです」

 その後、森口さんは一気に才能を開花させ、「バラドル(バラエティーアイドル)」として、芸能界の階段を駆け上がっていく。

(AERA dot.編集部・上田耕司)

※【後編】<奇跡の56歳「森口博子」が語る独身を貫く理由 「プロポーズされたのは3回以上、10回はない」>に続く。

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上田耕司

上田耕司

福井県出身。大学を卒業後、ファッション業界で記者デビュー。20代後半から大手出版社の雑誌に転身。学年誌から週刊誌、飲食・旅行に至るまで幅広い分野の編集部を経験。その後、いくつかの出版社勤務を経て、現職。

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