ファニーズ、一番右が岸部(写真提供=(株)アン・ヌフ)
ファニーズ、一番右が岸部(写真提供=(株)アン・ヌフ)

 ザ・タイガースの原形は岸部と森本、瞳、加橋の4人が65年6月に結成したサリーとプレイボーイズだ(岸部の愛称サリーはリトル・リチャードの「ロング・トール・サリー」が由来)。加橋と森本はすでにギターが弾けて、瞳もドラムをたたいたので、岸部はベース担当に。初めて抱いたのは京都の楽器屋で手に入れた4万円の中古だ。練習は西陣の、日本舞踊の小さな舞台の設(しつら)えがあった森本の家が多かった。

「貸しスタジオなんて昔はないから。近所から苦情がくるので、アンプも通さないで、小さな音でね」

 ほどなくバンド名をファニーズと変え、翌年、京都市内のゴーゴー喫茶「田園」で先輩バンドの坊やをしながら時折ステージで歌っていた沢田と出会う。

「僕ら4人は誰も歌えないと思ってたんでね。沢田に入ってもらって、ボーカルのいるバンドにしようとしたんだ」

5人のバランス 絶妙だった

 海の向こうでは、62年にデビューしたザ・ビートルズが瞬く間に世界を席巻していたころだ。オーディションに合格し大阪・道頓堀のジャズ喫茶「ナンバ一番」に出演するようになるとファニーズはファンが増えていった。だが、当時17歳の沢田に後の“ジュリー”の片鱗はまだ見えなかったという。

「僕たちはファッションもアイビーとかコンチとか、全体的に『カッコいい』っていうスタイルを身に着けていたけど、地味~でもっさりしてるのが沢田だったからね(笑)」

 だが、「いるかいないか、わからないような内気な少年」は、マイクを握ると不思議な光を放った。当時ブルージーンズにいた内田裕也が前座のファニーズに目を留めたことがきっかけで、渡辺プロダクションからのデビューへ繋がった逸話はよく知られている。

ファニーズが出演するダンスパーティのチケット(写真提供=(株)アン・ヌフ)
ファニーズが出演するダンスパーティのチケット(写真提供=(株)アン・ヌフ)

「5人のバランスが絶妙だった」と後年、内田は振り返っている。

 大阪時代のファニーズゆかりの地として往年のファンの間で有名なのが、メンバーが下宿していた西成区岸里(きしのさと)の「明月荘」だ。

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