85歳(86歳?)で逝った、ある者には父、ある者には祖父の通夜に親族一同が集まる。今期芥川賞を受賞した2作のうちの一作、滝口悠生『死んでいない者』は、そんな一族郎党の一夜を描いた物語である。
 これを一言でいえば「家系図が必要な小説」だろう。次々登場する人物の相関関係はもうチンプンカンプン。〈いちばん年長がさっきから話に出ている寛だ。死んでなければ三十六になるのか。その弟の崇志は葬儀に来ているが、末弟の正仁はさっき崇志が言っていた通り鹿児島にいて今日は来ていない。崇志が三十二、正仁は三十になったかならないかぐらいだ。春寿たちを乗せて風呂に行った紗重は二十八で、故人と同じ敷地で暮らしていたにもかかわらず葬式に来ていない美之は二十七だ〉
 こんな説明を急にされても、ねえ。だから故人と幼なじみの「はっちゃん」はいうのである。〈誰が誰だか全然わかんねえよ〉。
 その通り! 故人の5人の子どもと10人の孫の全貌がつかめない。それがむしろこの小説の企みなのだ。葬式に集まった親類一同なんてそもそも「あれは誰?」「あの子は誰の子?」の世界でしょう?
 一族の中には必ず一人二人は問題児がいるもので、行方知れずの「寛」について〈刑務所にいる。/ホームレスになっている。/死んでいる〉などの憶測が出たりするものの、誰も深入りはせず、酒を飲んだり銭湯に行ったりで夜はふけていく。
『死んでいない者』とは葬式に集まった故人以外の者、の意味。ただ、ふと妙な気分になる。これだけの人数の心の内に入り込める語り手とは誰なのか。もしかして死者?
〈俺たちは子ども五人とも無事に育って、そんなありがたいことないわけだが。/ほんとに。/しかし夫婦というのも、必ずどちらかが先に死ぬわけで。/そうねえ〉とは故人と先に死んだ妻との過去の会話だが、まるで死んだ者同士の会話のよう。棺の中から「死んでいない者」を観察したらこうなのかも!

週刊朝日 2016年2月26日号

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