1987年に放送されたドラマ「毎度おさわがせします」(TBS系)の第3シリーズに出演していたころの立花理佐さん

「私はもういらないんじゃないかなって、いつの間にか思うようになっていったんです。夫と息子の様子を見ていると、この2人だけで十分やっていける。病気の私がいない方がいいよねって、孤独を感じるようになって。気持ちがひねくれてしまいました」

 元気だったころは家事はすべて立花さんがやっていたが、病気後は状況が一変した。宅配業者がチャイムを鳴らしても、玄関までなかなかたどりつけず、業者が帰ってしまったり、家の電話が鳴っても受話器をとる前に電話が切れてしまったり。立つときはつかまるところを探し、ゆっくりとしか歩けなくなっていた。

「今まで通りに動いているつもりだったんですが、すべてが遅いんですよね。自分がどんな状態なのか、少しずつ現実に気づかされました」

 当たり前にできていたことが、できない。当たり前だった役割がない。

無意識に「死にたい」の言葉を

 さみしさ、悲しさ、不安、検査を受けてこなかった後悔。ネガティブな感情が束になって、立花さんに襲い掛かってきた。

「死にたい」

 そんな言葉を主治医の前で、無意識に口にするようになった。はっきりとは覚えていないが、家族の前でも言っていたかもしれないと、今は思う。

 10~20代から仲がいい芸能界の友人たちと連れ立って行った、行きつけの居酒屋でのこと。トイレから戻ると、全員が表情を硬くして立花さんを見つめていた。

「トイレに入ったときにふとこみあげてきて、気が付くと、狂ったように泣き叫んでいたんです。誰にも聞こえていないと思ったんですが、筒抜けだったみたいで、びっくりさせてしまいました」

 人前では弱音を吐きたくても吐けない性格。家で一人になったときは、毎日、大声をあげて泣いた。そうすることで、気持ちが少し楽になった。

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