「したくない仕事」を大量に引き受ける
なにが言いたいかというと、〈仕事〉は自分で創るもんだということなんです。そのためにはどうするか。
まずは「NO」って言うな。ノーという単語を忘れちゃえ。わたしは、新聞社も、社外も、発注には全部「イエッサー」「イエスマム」で生きてきました。十本発注されたら十本受けて、文句言わずに、どんどんアポ入れして、取材して、人より多く、人より速く、がんがん書く。「はい終わり。お次は?」とか、余裕かましている。すると、また仕事が来る。
そんなことをしばらく続けていて、たまに一つだけ、「ものすごくつまんない、くだらない記事があるんですけど」「紙面の端っこのほうで、小さく、どうすか?」とか、しれっとした顔で出してしまう。原稿は書いて、完成しているわけです。
そうするとデスクが——デスクというのは新聞社でいうところの編集者、記者の上司ですね——「しょうがねえなあ」と載せてくれますよ。
デスクだって記事を十本書いてるライターが大事なんです。「こいつがいないと紙面作りに困る」と、すでに思っている。受注仕事をむちゃくちゃに引き受けているあいだに、わたしはいつしか、相手の弱みを握っている。
ところで、わたしが十本記事を書いている間に、一本しか記事を出さない記者がいたとしたら、どうですか。その記事は、時間をかけただけあって、たしかに丁寧に調べてあるかもしれない。でも、彼/彼女は、その仕事しかしていない。人が嫌がるような、お知らせ記事や、目立たない地味仕事は、「いま、これを抱えているんで」という顔で逃げてしまう。
そうした人たちが、自分独自の企画を出したらどうなるか。通りませんよ。「その記事にはどういうニーズがあるわけ?」なんて言われます。却下される。
「したい仕事」がある人は強い
コンビニでバイトしながらライターをしている。作家を目指している。そういう人もたくさんいます。それの、いったいなにが恥ずかしいんですか?
むしろ、本物ってそちらだとも思う。コンビニでバイトしてでも、書きたい小説がある。描きたい絵がある。そっちでしょ、本物は。