
あれから20年以上経って最近ふと感じる反省ですけど、母が働いているシーンを描けば良かった、と思います。モデルである実の母は、パートをかけ持ちして一日中働いていました。でも私は、取材に行く余裕がなかったために、そのシーンを描けなかった。
余裕がないと言えば、「あたしンち」の食卓にオカズがない件。半分はネタですけど、半分は、私の無精です。すごい反省してるんですけど、食事シーンを5コマ描くとして、オカズをひとり1品増やすと、4人家族で、20のお皿を描かねばならない。例えば麻婆豆腐なら麻婆豆腐を20皿も描かなきゃならない……バイク便がもう来てるのにとても間に合わないので、省略してました。カラー漫画なので、テキトーなオカズを描くと目立つんです。茶色いと土を食べているみたいになっちゃうから、いっそ何も描かない。それが最近は虐待だとまで言われるようになって、もうちょっと描けば良かったと反省……。
「人生の走馬灯漫画」
漫画家は、年を取るにつれて描きたいものが変わって当然です。子どものころは、漫画家さんが年をとって絵が変わったりするだけで嫌だったけれど。それは私が幼稚で、何もわかってなかっただけだと思います。
還暦を過ぎて、親や友人が亡くなることを経験したら、生きてること、ナマモノ=変化する、ということが重要だと思うようになりました。おしゃべりも、この1年を通じた話より、今思いついたことの方が話していて楽しい。その気持ちをつぶさないように、あまり人工的、計画的にならないよう、描いていけたらなと思っています。
私の漫画は、微細なエピソードが多いのに、ファンの方が、例えば目玉焼きを食べるたびに「あたしンち」を思い出してくださるというような奇跡が起きて、感動します。読んでくださった方にとても感謝しています。
「あたしンち」は人生の走馬灯漫画だって、自分でひそかに思ってきました。走馬灯には自分にとって大事な、神聖な記憶が巡るんだと思うんですけど、同時に、超絶くだらない記憶も巡っていそうです。
神聖な記憶と、くだらない記憶って、何が違うんでしょう?
この30年近く、私がずっと考えてきたテーマです。
(構成/ライター・福光恵)
※AERAオンライン限定記事