11月23日より二十四節季・小雪の初候「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」。立冬から15日、日の光は弱まって虹が見られなくなる、という意味。春の清明の末候・虹始見(にじはじめてあらわる)に対応し、一応これより清明末候まで虹は店じまい、ということになるようです。とはいえ温暖化しているのではといわれる昨今では、冬の虹もそうめずらしくはありません。虹が出ると、思わず見とれてしまいますよね。人をひきつけ、うっとりさせる美しい虹。でも昔の人々はただきれいなものとして虹を見ていたわけではないようです。

色も七色ばかりではない!虹にまつわる世界の不吉な伝承

現代の私たちにとって虹というのは、ロマンチックで明るい幸福や夢の象徴。ヨーロッパ文明圏では、虹は総じて好意的に受け取られてきたようです。
ギリシャ神話では虹はイーリスという女神であり、イーリスはそのまま瞳の光の調整をする虹彩のことも指しますし、アヤメの仲間のアイリスも、同じイーリスからきています。とはいえ、西洋でも虹は不穏なものでもあり、イギリスなどでは虹が出ると、子供たちは虹が消えるおまじないをつぶやいたとか。そういえば、ピンクフロイドの「狂気」という有名なアルバムジャケットには、虹の分光が精神的不安の象徴として描かれていました。精神的な病や、嗜好の逸脱、混乱などが虹と結び付けられることも多いようです。
そして虹という漢字の本家中国では、はっきりと不安定や凶兆を暗示させるものととらえられていました。
それは「虹」という漢字にも現れています。言うまでもなく虫偏がつくのは蛇、蛙、蜥蜴(とかげ)、蝦蟇(がま)、蚯蚓(みみず)、蛭(ヒル)などと同じ扱い。虹は巨大な蛇だといわれていたのです。そして両端に頭があり、地上に水を飲みに来るのですが、両端の頭で水を飲むので虹のアーチの形になるというわけです。
また、色は五行に対応して五色、陰陽に応じて雄と雌の性別もある。これを虹蜺(こうげい)といい、虹(こう)が雄、蜺(げい)が雌、対であらわれるとされました。雌雄対で現れるとかちょっと不可解ですが、虹には実際よく見るとはっきり見える鮮やかな虹の上に、ぼんやりとして色の配列が逆になったもうひとつの虹があります。これは、副虹。この副虹を蜺といったのです。
そして、虹が現れるのは人の社会・世の中が本来あるべき道をはずして乱れたときに凶兆としてあらわれるといわれました。「淮南子(えなんじ)」の原道訓(げんどうくん)には、「虹蜺不出、賊星不行(虹蜺出でず、賊星(ぞくせい)は行かず)」と、虹が出ないことは世が乱れずよいこととされていました。
日本語の「にじ」という読みも、もとは「のじ」または「ぬじ」といい、[沼の主」という意味です。日本でも中国に倣い虹の色は五色で、やがて西洋科学の輸入とともに七色になったのですが、もっと古くは虹は黒と赤の二色、と考えていた時代もあったようです。これはまた異様な感じがしますが、[黒」というのはおそらく、主虹と副虹の間の暗く見える部分を指しているものと思われます。そして、主虹の「明るい」部分を「赤」と言っていたのではないでしょうか。
沖縄の島嶼地域では雨呑み者(アミヌミヤー)、奄美では天の長虫(ティンナギャ)などと呼び、旱魃をもたらすものとして恐れられ、また虹を指さすと指や手が腐る、といわれて虹が出ても指差してはならない、といわれていました。
とはいえ現代の私たちは、虹というのは太陽光が空気中の雨粒などの水滴に当たり、その42度の反射光(副虹・蜺は51度)が分光して虹として見える、と科学的に知っていますよね。

「冬の虹」よりも珍しい虹もある

ところで、空気が乾燥し太陽光が弱く虹が出にくい冬の虹よりも、もっと珍しい虹があるのはご存知でしょうか。
ひとつは白虹と呼ばれる現象。水滴よりも細かい霧粒などの水蒸気に反射してできる虹で、全体がほぼ真っ白。霧のでやすい高原の湿原によくあらわれるといわれ、尾瀬ヶ原や日光ではしばしば観測されるようです。
そして、夜の虹、月虹。太陽光ではなく、満月などの強い月光が作る虹で、出現頻度はきわめて低く、もし見た人は幸福になれるとか、運命が変わるなどの伝説もあるようです。月の光は太陽より弱いので満月であっても空気が澄んでいなければならず、なおかつ水滴が空になければなりません。かなりきびしい条件ですよね。台風一過の後の満月の夜に見晴らしのよいところにいってみると、もしかしたら見られるかもしれません。

ノアの箱舟の以前には虹は出なかった?雲の上の白髪の神様の由来

さて、珍しい虹どころか、さらに大昔には虹自体が存在しない時代があったのかもしれない、という伝承があります。
旧約聖書の創世記・有名なノアの箱舟の物語では、大洪水の後に神がノアに二度とこのような大洪水は起こさない、という約束のしるしとして虹を見せます。もし、それ以前に虹は出たことがあったなら、ノアも「虹が約束? 何それ」ということになってしまいます。はじめて見たから納得したはずです。
聖書の中ではノアの時代以前には地上のはるか上に「おおいなる水」があり、神の眷族が住んでいた、といいます。それは雲か水蒸気のようにもので、よく漫画やイラストなどで出てくる雲の上に立っている神様のイメージは、この伝説がもとになってできたものです。この天上の水が崩れ落ちてきたのがノアの大洪水で、空の水圏がなくなったために、今までは出なかった虹が地上から見えるようになった、というわけです。
もちろんこれは史実ではなく神話ですが、聖書などの古代伝承を事実を伝えたものとして研究する創造科学では、この天の水圏を水蒸気層といい、水蒸気層があった時代の地球は気圧が今よりずっと高く、したがって水の中のように重力が弱まって、今では考えられないスケールの生物、たとえばサウロポセイドンやアルゼンチノサウルス、ブラキオサウルスが存在したのだ、と説明します。荒唐無稽のように思えますが、筆者が子供の頃にはブラキオサウルスは水の中に浸かって生活していた、でなければ80tもの体重で動けなかった、といわれていて、それが最近では「いや気嚢があって実はそんなに重くなかったのだ」などと説明されるようになりました。すると今度は、80tどころか100tにもなるだろう化石が新たに見つかり、見直しを迫られています。恐竜についての仮説は何度も変更されていて、今いかにも本当のようにいわれている説も、いずれもっと大きな恐竜が出てきたりして、間違いといわれるようになるでしょう。そう考えると、昔は気圧が高くて今より大きくて重い説物が地上で生きられたのだ、という説明はそう変でもないのではないでしょうか。そして彼ら巨大恐竜は地上から姿を消し、空にかかる幻のような虹という竜になったのです、なんて物語を想像すると楽しい。「そこにはきっと船に乗っても電車に乗っても、たどり着けないの。遠い、遠いかなた・・・月のうしろ。雨の向こう側・・・」(主題歌「虹のかなたに」が有名な映画「オズの魔法使い」ドロシーのせりふより)。まるで追い求める幸福や見果てぬ夢のように、さわろうと近づいても消えてしまう虹。でも普段見慣れた景色も一瞬で変貌させてしまう魔法のような自然現象。何も近づいてさわらなくても、見えたというだけでラッキー、なのではないでしょうか。