1954年2月に神戸市で生まれ、両親と弟の4人家族。父は川重の技術者で、工場見学へ連れていってくれた。小学校時代は算数を教わり、いつも「技術者の匂い」をかいでいた。
県立神戸高校時代のある日。街で40代くらいの外国人男性に声をかけられた。ジョーという名の米国人で、大学の教師だった。親しくなり、自室にカラーテレビがなかったジョーは、日曜日にやってきてNHKの大河ドラマを観て帰る。
2人の会話はほぼ英語で、両親が「何を話しているの?」と尋ねた。この経験で、就職後に札幌で英語を話す機会に、抵抗感なくこなせた。
自動運転車両の開発会社の資料で知って就職先に決める
72年4月、大阪大学基礎工学部の電気工学科へ進む。4年生になって、就職先に自宅から通勤できるメーカーを考えていたとき、川重の資料でコンピューター制御の自動運転車両「KCV」を開発中と知る。「これをやりたい」と思い、受けた。76年4月に入社し、希望通りに車両事業部のKCV開発室へ配属される。KCVは高層ビルや高速道路の間を縫うように軌道を走らせるため、急カーブも急勾配もこなさなければならない。のちに「ポートライナー」として実用化した。
兵庫県加古川市の試験線で約3年、先輩と2人で試験車両を動かして様々な点を計測し、改良点を考えた。タイヤはゴム製で、同じゴムタイヤの札幌地下鉄との縁が生まれていた。
札幌から本社の車両部へ戻って約1年後の88年10月、ロンドン事務所のアシスタントマネジャーへ赴任した。川重は、英仏海峡トンネルを走るワゴン車の台車の試作車2両を受注していた。毎週のようにパリへいき、台車の試験に立ち会う。翌年にロンドン市営地下鉄のセントラルライン向け台車1436台も受注し、それも受け持った。「人生で、一番仕事をした」と思うほど、働いた時期だ。ここでは、市交通局で技術分野の総帥だった副総裁に食い込んだ。
副総裁は、思わぬところでも力になってくれた。神戸から社長がきて交通局の総裁を訪ねた際、台車の溶接や塗装で苦情を言われた。大きな問題ではなかったが、社長は腹を立て、宿泊先のホテルに現地法人のトップとともに呼ばれて怒鳴られる。「これは、クビになるな」と思い、帰宅して妻に話すと「そうなったら、2人でタコ焼き屋をしましょう」と言ってくれた。