『源氏物語』の最後の10帖は宇治が舞台の物語。宇治川にかかる宇治橋の西詰にある紫式部像はフォトスポットとしても人気 photo マツダナオキ
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 大河ドラマ光る君へ」も放送開始からまもなく2カ月。主人公のまひろ(紫式部)や彼女を取り巻く人々のキャラクターも明らかになり、物語はまひろの結婚、出産、夫との死別、宮中への出仕、そして『源氏物語』の執筆へと進んでいく。

「光る君へ」の物語が核心へと進んでいく前に、ここで「いまさら聞けない紫式部の超基本」をおさらいしたい。発売されたばかりの『京都たのしい源氏物語さんぽ』では、宇治市源氏物語ミュージアムの家塚(いえつか)智子館長が、彼女の人物像や『源氏物語』誕生の背景を解説している。

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 そもそも「平安時代」は、平安京に都が置かれた794(延暦13)年に始まり、400年ほども続いたながーい時代。紫式部が生きた西暦1000年前後は、ちょうど摂関政治が完成する絶頂期で、政治的には安定していますが、摂関政治の完成ゆえにこれまでの社会秩序にほころびが生まれます。

 例えば、末法思想の広まりとともに人々は現世ではなく来世に期待するようになり、その結果建てられたのが宇治の平等院。京都の周囲では戦が始まり、武士が力を増し…と、徐々に時代が変化していきます。

『源氏物語』が成立したのは、西暦1008年ころと考えられています。リアルタイムで物語を追っていた当時の貴族たちは、続きが読みたくてたまらなかったはず。『紫式部日記』には、道長が娘たちのために紫式部の局(つぼね=部屋)から物語の草稿を持ち出すエピソードや、一条天皇や藤原公任も読者だったことが記されています。少しあとの時代の菅原孝標女が物語の大ファンだったことは有名ですし、鎌倉時代以降は武家の教養の基本としても読まれました。

『源氏物語』全54帖の作者である紫式部は、京都・紫野の生まれ。天皇家や藤原道長などと比べると身分は高くありませんが、藤原氏の生まれで、ひと言でいうと中流貴族でした。父・為時は、いまでいう知事クラスの役人「受領(ずりょう)」階級で、時には京都を離れて各国で実務を担当しました。紫式部は当初は宮中で「藤式部」と呼ばれていましたが、これは家の姓「藤原」と、父の勤め先だった「式部省」に由来します。実家は代々漢詩文にたけていて、紫式部も幼少期から漢籍に触れる機会が多かったようです。

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賢すぎてあまり友だちになりたくない⁉