いつのまにか旦那は筑波大の元の指導教員のところに通い始め、仕事を続けながら論文博士を取りました。もともと研究者になりたいと言っていたんです。修士で就職したときは「あれ? 研究者にならないんだ」と意外に思ったんですが、あとから考えてみると「男性が稼がなければ」というような気持ちを持ってしまったのかもしれません。学位を取れたころには,短大の教員をしていました。
子育てはずっと綱渡り
ところが、その短大がやがて閉校となり、筑波大を定年退職した恩師とともに九州産業大学に行くことになった。私は都立大にいたときで、「え~、行っちゃうの」と思いましたが、しょうがないっていう感じでした。それから20年ぐらい別居です。
――お子さんたちは?
小学校に入ったあと保育所仲間のお母さんたちと一緒に学童保育所をつくりました。でも、学童保育は3年生まで。そのころ私の父母が同じマンションに住むようになって、晩ごはんはおばあちゃんちで食べてねっていうようなことができるようになった。子どもが小さいころはベビーシッターも雇ったし、近所の方にも助けていただいた。もう、ずっと綱渡りでした。
高校は2人ともニュージーランドに留学したんです。子どものころ、私と一緒にアメリカに行ったことも影響したかもしれません。アメリカはお金が高いから無理だよと言っていたら、アメリカより安めで行けるということを自分たちで調べて。
――え、3年間、向こうの高校ですか?
そうです。
――たくましいですね。
親がこんなんだから、お母さんお父さんには任せられないと思ったんでしょうね。卒業して帰ってきて日本の大学に行きました。大学に入ったらそれぞれ下宿です。
――そうすると、お嬢さんたちが高校に入って以降は、伸び伸びと研究ができたわけですね。
そういうことになりますね。女性研究者のライフって、本当に親のこととか子どものこととか夫のこととか、みんな絡まってきますよね。自分一人でどうっていうふうにならない。
北大の定年は63歳だったんですけれど、61歳のときに立命館大学に新しい学部をつくるから来てくれませんかと言われて、大阪いばらきキャンパスにできた総合心理学部に移りました。
――夫さんがいる福岡に近づいたわけですね。
彼はもう本当に形の決まった生活をしている。朝4時ぐらいに起きて6時ぐらいに大学の研究室に行って、決まった時間にコーヒーを入れて仕事を始める、みたいな。いつも福岡に行くとそれに付き合わされます。私は2カ月に1度ぐらい福岡に行き、彼もそれぐらいのペースで大阪に来ていました。最近は朝ごはんを食べるときはZoomで喋りながら食べています。
――へえ、北大時代はどうしていたんですか?