双子の娘たちと保育所で=1991年

 よくわかっていない学部生だったから(笑)、「わかった。じゃ、結婚しよう」って。私とはタイプが全然違って、堅いというか、精緻というか。私がフワッとしたことを言うと、それじゃ意味がわからない、もっと詳しく説明してくれないと、というようなことを言う。私が修士論文を書けた半分は議論の相手になってくれた彼のお陰です。とても感謝しています。最初に住んだのは、筑波大の夫婦向けの寮でした。

 私が修士を終えたとき、お茶大の博士課程は人間文化研究科という科が一つだけで、私は文教育学部から進みましたけど、理学部からも家政学部からも来た。こぢんまりしたところで専門が違う人どうしでワイワイやっていたから、自分がやっていることが自然科学系と違うという意識はあんまりないんですよね。

 博士課程の最後の年に妊娠し、助手になった年の10月に出産しました。女の子の双子だったんです。お茶大から歩いていけるところに住んで、子どもたちは保育所に入れました。彼は修士を終えるとシンクタンクに就職しました。すごく忙しい職場で、帰りは毎日深夜。私はもうよく覚えていないくらい大変でした。でも、私がそう言うと「いやいや、俺だってミルクをあげた」とか言いますけどね。

米国留学は「行って本当によかった」

――お茶大の助手は3年で終わったのですね。

 最初から3年と言われていました。それで、先輩たちと同様に就職活動をして、千葉大教育学部へ。教育心理学教室の講師になった。そこで35歳以下の研究者を対象にした在外研究プログラムにぎりぎりのタイミングで申請し、米国のデューク大学に10カ月間、留学できました。子どもを2人連れて行くと言ったら、夫からは「離婚を覚悟で行ってくれ」なんて言われてしまい、職場からは「今行ってもらっては困る」とも言われたんですが、行ってしまった。

 行って本当に良かった。結局、夫も4回ぐらい米国に遊びに来ました。子どもたちは幼稚園のあとはYMCAのアフタースクールのプログラムに行き、手続きも簡単で、私は存分に研究ができた。帰国してから英語の論文を米国の雑誌に出しました。それまで、日本の心理学は日本語の論文を日本の学会誌に出すのがメインだった。私にとっては英語論文を書くということ自体が新しいことでした。

――どういう研究をされたのですか?

 自然文脈の中での記憶です。実験室で何かをパッと見せて覚えているかといった研究ではなく、例えば漢字を覚えるには「書いて覚える」のがいいとよく言いますよね。それは本当に有用なのか、というようなことを調べた。

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