11月12日放送の大河ドラマ「どうする家康」は、ついに関ヶ原の戦いを描く。「調略が勝敗を決した」とされる天下分け目の戦いが繰り広げられたのは、1600年9月15日。この記事では、静岡大学名誉教授で日本中世史、特に戦国時代が専門の小和田哲男氏が監修した『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(かみゆ歴史編集部編)に掲載された「関ヶ原の戦い布陣図」などを使って、放送の前にこの戦いを予習しておきたい。
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11月5日の「どうする家康」では、上杉征伐に向かった徳川家康のもとに石田三成挙兵の知らせが届き、決戦に臨むことを決意した家康が江戸城に戻り諸大名に応援を働きかけるところまでが描かれた。
『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』によれば、上杉景勝に謀反の疑いをかけた家康が会津に向けて大坂城を出陣したのは1600年6月16日。下野(現在の栃木県)の小山で三成の挙兵を知って江戸城に戻り、9月1日に上方へ向かったとされる。
そのころ、伊勢の平定に当たっていた西軍(三成方)の毛利秀元・吉川広家らが美濃に入り、南宮山の東麓に布陣。家康は9月14日に美濃赤坂に到着し、西軍が本拠とする大垣城を抑える岡山に本陣を置いた。そしてその夜、三成らが大垣城を出て関ヶ原に向かうと、家康も関ヶ原に布陣したという。
決戦の9月15日は、朝もやが晴れた8時ころに戦闘が始まり、東軍(家康方)の先鋒・福島正則が西軍の宇喜多秀家に攻めかかると、東軍の黒田長政と細川忠興が三成の本陣に猛攻をかけた。結果、三成は自らの本陣に押し込められてしまう。
ここからのキーマンは、松尾山に布陣した小早川秀秋だ。松尾山は戦場全体を見渡せる位置にあり、戦況を見極めるには絶好の場所だった。秀秋には東西両軍から誘いがあったが、戦闘開始から4時間が過ぎた正午頃、東軍に着くことを決めて松尾山を駆け下りる。