『訂正する力』東 浩紀著
朝日新書より発売中

『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)を二○二三年八月に出版したばかりの東浩紀氏の、語り下ろしだ。聞き手は辻田真佐憲氏、構成も手がけている。できた原稿にもう一度東氏がすっかり手を入れたのが、本書『訂正する力』である。二人のコンビが絶妙で、なめらかプリンのような仕上がりだ。のど越しがよく、しっかり栄養もとれる。これまでの東氏の手強い文章と違い、すらすら読みやすい。

 なぜいま「訂正可能性」なのか。混乱する世界を導くこの概念の誕生の秘密を、本書は丁寧に説き明かして行く。

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「第1章 なぜ「訂正する力」は必要か」

 訂正する力をなくした日本は、停滞している。東氏の指摘だ。たとえば≫左翼リベラル勢力…は…とにかく「絶対反対」≪で現実と遊離したまま。9条を守れと自衛隊に反対するいっぽう、24条「両性の合意」は、同性婚も含むと読めるから、改正しなくてよい。やれやれ。保守派も訂正する力が欠如しているのは似たようなものだ。日本を大切にしようというかけ声は結構だが、≫「日本的なもの」の内容…の変化に対してあまりに頑なではないか≪。

 訂正する力とは、≫現状を守りながら、変えていく力≪のこと。最近はPC(ポリティカル・コレクトネス)の流れで、昔の発言をほじくり出して誰かを社会的に葬る「キャンセルカルチャー」が流行っている。でも人間は、間違える生き物だ。それを反省し、謝罪し、なお生きる。「老いる」とは「訂正する」こと。PCの短絡とも、誤りを認めず頑固に過去を否定する「修正主義」とも違うのだ。

「第2章 「じつは……だった」のダイナミズム」

 訂正は、変えているのに続いていること。どうしてそんなことが可能か。東氏はその根拠を、ウィトゲンシュタインの言語ゲームに求める。ウィトゲンシュタインは、言語ゲームをやりながら「ルールをでっち上げる」場合があるとのべた。東氏も言う、子どもは鬼ごっこをやっているうちにいつのまにかかくれんぼになり、そしてケイドロになっている。でも別な言語ゲームになったと思わない。

 クリプキのクワス算もそうだ。たし算を習ったあなたが68+57の計算をしようとすると、クリプキがその答えは5だと言う。ある程度より大きな数の計算は、たし算ではなくクワス算になるのだ。東氏は言う、どんなルールにも穴がある。どんな言語ゲームにもクレーマーは現れる。ならばルールを再解釈し、続けて行こう。「訂正」である。

「第3章 親密な公共圏をつくる」

 資本主義のもと、人間は労働力にすぎない、交換可能な存在だ。肩書(属性)で仕事をしていると、それがなくなった途端に困惑する。属性でなく、固有名の存在に、交換不可能なあなたになりなさい。それには組織が、結社が、喧騒が、祭りが役に立つ。日本にもまだ希望がある。小さな会社の経営者でもある東氏からの頼もしい応援歌だ。

「第4章 「喧騒のある国」を取り戻す」

 訂正する力は、≫過去の解釈を変え、現在につながるような新たな物語をつくる≪ことでもある。だから、日本の保守思想を、リベラルな視点から読み替えよう。東氏の提案だ。「喧騒」とは、極論が共存すること。敵と友が分断されないこと。訂正する力が失われないことだから。

 そこで私は原爆のことを思った。『オッペンハイマー』を観た。原爆を開発した側の苦悩を描いている。ヒロシマの惨状が画面に映されないのは生ぬるい、とウェブにコメントが載った。日本の新聞記者だ。それは違うと思う。オッペンハイマーは大統領に言う、「自分の手は血に汚れています」。大統領に無視された。加害者の彼の苦悩のほうが、被害の側からだけものを言う人びとよりも、深いのではないか。原爆を開発する側の苦悩を踏まえて、過去を語り直そう。戦争と正面から向き合うための第一歩である。

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 本書は『訂正可能性の哲学』『観光客の哲学 増補版』の普及版だ。ウィトゲンシュタインやクリプキのほか、ルソーの『新エロイーズ』『人間不平等起源論』、ドストエフスキイの『地下室の手記』『カラマーゾフの兄弟』、アーレントの『人間の条件』などを読み抜き、従来の解釈を大胆に「訂正」していく。読んでいてワクワクする。

 軽妙な筆致が魅力な本書だが、読めば無傷ですまない苛烈な書物でもある。とくに左派リベラルに対する批判は手厳しい。「訂正する力」とは、自分の生き方を再定義し、よりよく生きる歩みを始めること。一人ひとりの生き方の話であるが、政治や経済や…戦後日本の総点検の話でもある。誰かひとりが思索を深めるだけで、ここまでインパクトのある仕事ができるのか。勇気をもらった。